クソみてえにつまんねえ小説
こどものころ、ぼくはオトナというものはみな賢いものだと信じていた。それは周囲にいるオトナだけではなく、駅ですれ違うサラリーマンたちや、画面の向こう側にいる正体不明の匿名の人たち、あるいはテレビや雑誌越しに見る有名人たちといった、自分にかかわりのない、総体としてのオトナたちを含めての、根拠のない信仰だった。
もちろん、そんな事実はない。自分がそうしたオトナに仲間入りを果たしていくにつれて、徐々に連中の「賢くなさ」がわかっていく。
大半のオトナは、なぜロシアが他国侵略をおこなっているのか知らず、二院制の意義を知らず、今現在わたしたちが参政権を有していることがいかに奇跡的であるか知らず、新疆ウイグル自治区で繰り広げられているジェノサイドを知らない。なんならジェノサイドというワードの意味も知らない。
べつにそれでいい。
いや、よくはないのだが、それ自体は争点ではない。
問題は、そうした信用に値するオトナたちの傘下にある自己を認められなくなることだ。
こんなにスゴいひとたちの庇護下にある自分もまたスゴいのだ(≒いつかスゴくなれるのだ)と信じられる、いわば聖域に留まっていられなくなることだ。
そう、そこはけして無条件に依拠できる居場所ではない。
つまり、いつしかこどもは理解するのだ。
セカイのうちにある自分、という一個ではなく、セカイと自分を、セカイの内側に含まれながらも、分化して生きていかねばならないのだと。
賢いオトナたちがやっているのだから、この形態・状況には間違いないのだろうと信じられる素朴さは、ライナスにとっての毛布のようなものだ。
だれしもが、いつか当然のようにうしなうものだといえる。
*
この世界に文化産業と呼ばれるものが成り立ったのは20世紀初頭のことだった。
資本主義の本質は、人間の余暇の過ごし方さえも資本的なダイナミズムに含まれるようになったことにある。わたしたちの休日の過ごし方は、だれかしらによって導かれているのだ。
休日とは、本来そのひとが過ごしたいように過ごすことだ。そのひとがやりたいことを、やりたいようにやることだ。つまり、ホモ・ルーデンスの名のとおり、まっとうに遊ぶことだ。だが、決断することはつねにむずかしい。なにを遊ぶのか決めるということでさえも。賢くないわれわれには、自分の欲望の正体を見極めることさえむずかしいのだ。
だから、ありがとうことに資本家がわれわれの欲求を創出してくれる。
休日に向かうべき商業施設、SNSに投稿すべき写真、クレジットカードを登録するべきサブスクリプション、プレイすべきソーシャルゲーム、動画サイトで見るべきチャンネル、商品を買うべきECサイト、ECサイトで買うべき商品まで選定してくれる。
あれを買え、これを買え、おとなしく平和に余暇を過ごし、月曜日になったら文句を言わずに働け、というフォード式の労働環境は、その射程が平日のみならず土日にまで及んでいるが、大半の人間は、それに気づいているにせよいないにせよ、黙って従っている。
……と、こうした一連の言説は、もちろんぼくが言い出したことなどではない。むしろ手垢がつきすぎて真っ黒になっているくらい周知の、昔から擦られている言い方だ。『ファイトクラブ』であれ『ゼイリブ』であれ、あるいはそれ以外のありとあらゆる、わずかでも批判的な精神を持つ作品なら、なんだって言及してきた事実だ。
さて、以上を踏まえ、ぼくが過去どのように余暇を過ごしてきた人間であったかというと、これはまあまあに本などを読むガキであった。
それも雑読寄りであり、体系的な読書というものはほとんどしてこなかった。中学時代の読書記録をひっぱってくると、安部公房の戯曲のあとにゼロの使い魔を読み、豊穣の海を読み、涼宮ハルヒの憂鬱を読んでいたらしい。
その読書記録として活用していた当時のブログを読むと、ぼくがいつ「世間のオトナの実態」に気づいたのか、その萌芽が垣間見える。
高校一年生のときの日記に、こんな一文だけが書かれたものがあった。
おもしろいものと、出版社がおもしろいと言い張っているだけのものは違う
ぼくは、思わず笑ってしまった。
おそらく「これは稀代の名作である」「至上の傑作である」等と銘打たれた駄作を買って読み、怒り心頭に書き殴ったのだろう。
あの有名な作家が推挙しているのだから、あの有名な賞を受賞した作家の本なのだから――世間の賢いはずのオトナたちが薦めている本なのだから、絶対におもしろいに違いないという、巨大な岩のような幻想は、こうした苦い経験を繰り返して、徐々にその表面が削られていく。
そして最後には、際限なき摩耗のすえに、岩そのものが消失する。
フリーランサーとはいえ、作家だって経済社会のなかに生きる商売人には違いなく、出版社や編集者という大事な取引先に頼まれれば、なかなかノーとはいえない。むしろ素直にうなずいて自分の名前を帯に書いてもらったほうが、ずっとおいしい。だから大半のオトナはそうする。
そう、前提としてわれわれは飯を食っていかねばならない。
資本家の無体な命令に従い、顧客が次に買うべき物を不断なく提供しなければならないわれわれは、外出中にも米を炊ける炊飯器は当然として(そんな便利な物、どう考えたって欲しいに決まっているだろう?)、次に読むべき名作小説だって次々に産み出していかねばならない。
すばらしきセカイに庇護された最強の俺たちは、すばらしきセカイが「これはすばらしいのですよ」と手渡してくれた、病気で死ぬと予告されている女が最後に病気で死ぬ、マジでやばい泣ける小説を読んで、マジで泣く。
しかし、そうしているうちにふとこんなふうに思う。
この本は前も読んだな。前の本でも、不治の病の女が死んでいた。いや、あれは病気じゃなくて通り魔殺人だったかもしれないが、とにかく不憫な女が死んだ。……ひょっとして、俺は同じ話を読まされているのか?
どうやらタイトルと著者名が違うだけの同じものを読まされているらしいと気がついたら、いよいよセカイとの分化が始まったといえるだろう。
より端的にいえば、まともな自我が芽生えはじめたといっていいだろう。
もっとも、大半の人間にとって読書などというものは、病気で女が死んだ最高の一冊を一生小脇に抱えて、もしもだれかと本について会話する機会があったときには、笑顔でその本の表紙を見せる程度のものにすぎない。
これは重要な話だ。たった一回の読書体験を誉れに思い続ける人間ではなく、この世に数多あるジャンル:趣味の項目から読書と呼ばれる行為を選び、わざわざ新たな本を読むことに時間を使うような人間は、いつの日か、そこにはおもしろい本と、資本家がおもしろいということにしているだけの本の、二種類が存在していることに気がつく。
だが、気づいたときにはもう遅いのだ。
どう遅いのか? 大半の人間は、事実に気づいたときには、すでにコンテンツ産業に本気である必要がないからだ。
そう――そのときにはもう、卒業しているのだ。
映画であれ漫画であれ小説であれ、齢三十にもなれば、多くのひとは虚構の物語から卒業している。それよりも大事なのは、自分のこどもだ。平日は仕事にいそがしく、休日は家事と子育てに追われている。夫婦共働きなのだから、俺だって先に家に帰れば下手な料理をがんばらなければならない!
そんな人間は、もう腰を据えて小説を読んでどうのこうのなどと言っている場合ではない。というか、ぶっちゃけどーでもいい。
もちろん、たまにちょろっと読んだりはする。昔はこういうの好きだったなぁといいながら、ちょうど老人がアルバムに目を通すのと同じ要領で、過去に読んだことのあるもの、あるいは過去に読んだことがあるものに通じていそうな既視感のあるものに手を伸ばしたりする。
もしもそれがつまらなかったとしたらどうだろう? だからといってそこまで怒ることはない。「俺が若いころはこういうジャンルの作品はもっと~」とSNSで軽く文句を垂れるかもしれないが、せいぜいそれくらいだ。
本質的にどうでもいい。虚構の話に本気のフェーズはもう過ぎ去った。自分にとって大事な物語があるとするなら、それは自分のこどもの人生だ。こどもにポケモンの新作を買い与えたとき、いつの間にか知らないタイプが増えていて驚く程度でいいのだ。
だからこそ虚構の産業は成り立っている。ひとはいつまでも騙されてはいられないが、いざ騙されなくなったころには卒業している。もしくは、卒業を強要されている。
困るのはごく一部の人間くらいだ。
劇好きが高じて、なぜか気づいたら作家側になっていた三十歳くらいだ。
わざわざ困る必要があるのは。
今となっては、ぼくは大半の消費物を「ふーむ」と、一歩下がって眺めることができる。
もちろん文化産業に含まれている多くの消費物のなかに、名作などほとんど存在しないということもわかっている。いわゆる名作とされるものが、企業の涼しい会議室で腕を組む、あまり心から創作とかかわることのなかった会社員たちのディスカッションやジャッジメントから生まれるものではないということがわかっている。
売り手側には名作を作る気などいっさいなく(いいものを作ろうとしているひとはいるが)、企画といえば売れる物を考案するものであり、そしてよく売れる物とおもしろいものは別物だということもよくわかっている。
いざ客としてのぼくが棚を眺めるときの目線は、かつてとは異なる。
もはや一大ムーブメントに乗ろうというつもりは毛頭ない。今月発売したものは今月発売したものにすぎず、10年前に発売したものは10年前に発売したものにすぎない。そこに余計なタグはなく、仲間たちとのコミュニケーションの足掛かりでもなく、あるいは自己実現の手段でもなく、自分が個人として楽しめればそれでじゅうぶんなものとなってしまった。
だからぼくは、じつはとっくに客としては娯楽産業から降りている(売り手側としての立場は複雑なので割愛する)。
もちろん、はやりのアニメを見ることはある。映画だって見る。今となってはあまり漫画は読まないが、小説はまだ読むことがある。
スティーブン・キングの新作をまあまあ楽しく読み、1巻が刊行される前に頭から終わりまですべて書かれたうえで順に発売されているというライトノベルのシリーズをおもしろがって読み、ケン・フォレットの総計5000ページにもおよぶ壮大なサーガを読む。
最高なのはケン・フォレットだ。今を生きるイギリスの文豪。英文学の系譜を正しく継承し、娯楽性を孕んだ叙事詩を書くことのできる本物の作家。なにかを本当に書くということができるとは、フォレットのような男を指すのだ。
彼の小説は、世界的には非常によく売れた。大ベストセラーとなった。
だが日本の文化産業のターゲットからは漏れた。ゆえにフォレットの至高のシリーズである20世紀3部作は、そもそも名前を知っている者さえほとんどいない。この国の資本家の薦める商品リストに名前が載っていなかったのだ。
おそらく、本当におもしろい物語はインターネットの海に沈んでいるのだろう。いまだぼくが出会えていないだけで、いざ読んだらすばらしく感じる小説が眠っているに違いない。残念なことに、なかなか出会う機会に恵まれていないだけで。
知ってもらう機会を得るというのは、すっかり飽和した文化産業における課題のひとつだ。だれもかれもが、自分という商品を手に取ってもらうためにアピールしている。本投稿のタイトルだって、機能的には同じだ。可能なかぎり扇情的にして目を引いて、実態とは違ったり、モラルに欠けすぎた題名を打ち出してまで、どうにかこうにか目立とうとする。
ぼくにだってそういう時代は覚えがある。いちばんはじめに物を書き始めた中学生のころ、当時入り浸っていたファンサイトでとある漫画の二次創作を投稿していたころは、ほかの小説に埋もれないようによく注意していた。そしてPVを伸ばして、だれかに感想をもらうということに躍起になっており、それが創作の目的の一種となっていた。そうした時代はだれにでもあり、もちろんプロの世界でも普通に観測される行為だ。
タイトルは伏せるが、昨今人気となった有名百合アニメのいくつかは、ひとつの意義のあるテーマを示した。
われわれにできるのは社会変革や、これぞ正しいと信じる世直しを遂行することではなく、どうしようもなく終わっている制度の世界で、自分やその周辺だけは損を被らないようにクレバーに立ち回る程度のことである、という価値観が、完全に浸透しているという事実だ。
かつて糸井重里氏が書いたキャッチコピーであるところの「おいしい生活」は実現されている。タイム/コストパフォーマンスをよく意識して、総体として誤ったセカイのなかで、自分だけはおいしく立ち回っていく。
その裏側でなにが起きていようと、自分とは無関係な、可分された存在として処理していく。
ここにおもしろい逆転が起きている。セカイと自分を分化していない存在であるにもかかわらず、セカイのなかで明確に起きている大きな問題を、自己から切り離しているのだ。
さもありなん、とぼくは思っている。これは投げやりな諦念ではなく、本当にそう思っているのだ。
ぼくは、わざわざポストモダンなんかにけんかを売りたいわけではない。ある程度まともに知恵のついてきた人間ならば、大いなるシステムには歯向かっても仕方のないものだということがよくわかっている。
しかし、それでいて正解だとも思っていない。しかたのないことだが、正しい行為だとは1ピクセルも思っていない。村上春樹氏がエルサレムでおこなった講演の中身は、結局のところ正しいのだ。
システムという大きな壁に投げられる卵。それらはあっけなく割れ、中身が弾け、無惨に壊れる。では、それは果たして無意味な行為であるのか?
ぼくには、文化産業のなかで消費されるブンガクの、その文学性をそぎ落としていったとき、最後の本質は、それでもシステムの外に宿っているように思えてならない。
ぼくが中学生のころ、本当におもしろいアニメがあった。今でもよく名前のあがる名作アニメだ。
その監督が当時のアニメ会社を抜けて、べつの制作会社を立ち上げて、数年前に新作を撮った。
すばらしくつまらないアニメだった。それどころか、民族浄化を肯定する話にもかかわらずハッピーエンドを装っており、じつに最悪だった。
迷ったすえ、ぼくはこのように感想した。「監督にだって飯を食わせなければならない家族がいるのだから仕方がない」。
巨大資本というジャングルのなかで明日の糧を得るためには、クソみたいにつまらない小説だって、カスみたいなアニメ映画だって、目覚まし機能付きのテレビだって、なんだって死ぬ気で売らないといけないのだ。
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