レコラの愛まで数センチ・1
Sportifyで音楽をランダム再生していたらRADWIMPSの知らない曲が流れてきた。こういう機会がないと改めてRADWIMPSの曲一覧を確かめたりはしないし、こういう機会を与えてくれるからSportifyは重宝している。アルバムを眺めていると随分知らない曲が増えたなぁ、という印象だ。今より13年前、RADWIMPSがまだそこまで圧倒的なブレイクはしていなかった時期にライブに行ったことがある。5thアルバムのアウトコロニーの定理のリリース記念ライブだったように記憶している。おしゃかしゃまを妥協なしで歌い切った野田洋次郎氏を見て思わず「すげぇ」と呟いてしまったことをやけに鮮明に覚えている。
当時、ぼくが特に好きだった曲は4645だ。改めて歌詞を見ると、中学時代は意味がわかっていなかった英詩部分が理解できた。でも変わらず好きなのは、「銀河の果てまで射程距離15cm」の日本語歌詞である。これはなぜかよくわからない理由で中学時代の仲間内でウケて、なんでもセンチメートルで喩える習慣が2週間くらいだけ流行っていた覚えがある(どうでもいいけど、そういうキャラクターがケロロ軍曹にもいたよね)。
恋の成就までには可視化できない距離がある。これは仮定ではなく、ただの事実だ。では可視化できると仮定する場合、ぼくはそれに何センチ、あるいは何キロメートルと定義するのだろうか? これはつまらない心理テストの類いというよりは、奇妙な自問性を帯びた設問としてぼくたちの目の前に鎮座しているように思われる。
ぼくは思う。
あの時、レコラの恋が実るまでに、あと何センチだったのだろう?
*
シシドさんが引っ越してから、しばらくが経過した。
「ここを畳んで田舎の方で店を開こうと思ってね。寂しくなるわね~」
シシドさんがそう言った時、ぼくは大してショックに思わなかったが、蓋を開けてみると、想定よりはずっと困ったことになった。シシドさんは近所でバーを開いていた中年のおじさんで、いわゆるオネエ系の人だった。ものすごく適当に店を経営する人で、同じ量の酒を頼んでも日によって会計が変わる店だった。
本来、ぼくはバーのような場所にはある程度の気合いを入れて行くものだと思っている。べつにドレスコードを守る必要はないが(店の方だって設定していないし)、なんとなく身を引き締めて臨む必要があるように思われるのだ。一転して、シシドさんの店にはそういう緊張感がまるで必要なかった。深夜にパジャマで行こうとも問題のない、バーとは名ばかりのたまり場だったからだ。ぼくはそういう店を多少なりバカにしながらも、まあまあ通っていた。結局のところ、コンビニと同じ気楽さで行ける飲み屋は大事だったのだ。
かつ、シシドさんはかなりストレートにセクハラしてくるので苦手だったのだが、いなくなってしまうとそれはそれで悲しいものだった。……などと書いたが、こっちは嘘だな。別にシシドさんがいなくなって特に悲しがった記憶はない。シシドさんの店は重宝していたが、シシドさん自体はどうでもよかった。シシドさんの店をそのままに、店長だけ妖艶なお姉さんにすげかえてくれたら満点をさしあげようものなのだが。いや、もしそうなったらぼくにとっては気合いを入れて行く場所になってしまうから、シシドさんの店という認識ではなくなってしまうのだろうか。まあ、この辺はどうでもいい話だ。
とにかく、シシドさんが店を畳んでから数ヵ月後、ラインがきた。
「田舎で新しい店を開いたの♡ あんた夏休みで暇でしょ♡ 来て♡」
ムカつくラインだった。
「行かない♡」
「来て♡」
「行かないってばよ♡」
「来い♡」
以降、既読無視していると、無限にハートマークが送られてくるようになったからブロックした。
後日、同じくシシドさんの店の常連だったクロさんからラインがあった。
「シシドさんから宣伝のライン来た?」
「来ました。ブロックしました」
「この短い間に何があったんだ……」
クロさんは気のいい中年の男性だ。川崎市の工場で働いていて、いつも額が光っている。バツイチのおじさんで、昔は美人の奥さんがいたが逃げられたのだという。ちなみに子供は欲しかったが恵まれなかったそうだ。
「実は、今度仕事で偶然シシドさんの地元の近くまで行くことになってね。そのついでに店に顔を出そうかと思うんだけど、郁夫くんもよければ来ない?」
「すみません。その日は2限に必修の講義があって」
「まだ日程すら言っていないんだけど。っていうか夏休みでしょ、今」
まあ、それはそうだ。
申し遅れたが、ぼくは暇な大学4年生である。名前はまだない。
「一緒に行こうよ~。ボク、車出すからさぁ」
クロさんは仲のいい人だ。映画に詳しい人で、ぼくはこの人にいくつも名作を教わったことがある。頼みを無碍にしたくないし、シシドさんと行く♡行かない♡の正味どうでもいいやり取りを続けるつもりもなかった。どうせ暇だから行くのだ、ぼくは。
「いいですよ」
というわけで、そういうことになった。
*
シシドさんの地元はなんとも言えない場所にあった。首都圏であることには間違いないのだが、なんとも田舎っぽいのである。たかだか数時間車を飛ばしただけでこれほど様変わりをするのか、というほどに。
車から降り立った時、ミニチュアのセットみたいな町だな、と思ったことをよく覚えている。珍しいことに、野良犬がいた。東京で暮らしていると野良犬というのは滅多に見ない。ぼくはなぜか、どうどう、と言いながら手慣らそうとしていた。
「なにやってんの。はやく行こうよ」
時刻は夕刻である。クロさんが道中の国道でよくわからない部品工場に立ち寄って、よくわからないパーツを段ボールいっぱい分回収して後部座席に積むのを、ぼくは涼しい車内で手伝いもせずにただ見ていた。怒られるかな、と思いきやクロさんは平然としていたので居たたまれなかった。ツッコミ待ちだったというのに、これではただのマナーの悪いガキではないか。
まあ、マナーの悪いガキに違いはないのかもしれない。
大学4年生。当時21歳だったぼくは、両耳にピアスを5つ開けて、光るネクタイを締めていた。ピアスは理解できるとして(今もつけているし)、なぜネクタイを光らせていたのかは自分でも理解できない。あと、どうして就活に失敗していたのかもわからない。世界は謎だらけだ。
「クロさん、シシドさんの店ってどこかわかるの?」
「え。それは郁夫くんが調べておいてくれるって話だったじゃない」
「いやまあ、グーグルマップは開いているんですけどね? でもこれ、間違っていますよ。住所はここなんですけど、店構えが違くないですか?」
ぼくとクロさんは、町の川沿いにある奇妙な店の前に立っていた。
ガールズバー、SHI-SHIと書かれている。新しくできた店とは思えないくらい、看板がさびれていた。というか、ここが新しい店のはずがないだろ。これはこの土地に根付いて23年とか経過したタイプの店だ。そろそろ耐震の問題でリフォームが必要だと行政に怒られている類いの。
「……帰りますか。店ないし」
「いや、ここなんじゃないの!? ほら、SHI-SHIって書いてあるし。これ、たぶんシシドさんのSHISHIでしょ?」
「? シシドさんって誰すか?」
「都合よく記憶喪失にならないでよ!」
店頭で騒いでいると、がらがらと引き戸が開いた。
「あー! よく来てくれたわね~! 嬉しいわ~!」
早くも懐かしい、野太い声が聴こえてきた。
久しぶりに見るシシドさんは、少しだけ痩せていた。チャームポイントだった青ひげは変わらなくて、剃った直後だろうといつでも若干青い。黒いタンクトップ姿は見慣れた当時のままだ。身体をくねらせて、やけにぼくに触ろうとしてくるのも変わらない。自分より年下なら誰だって構わない淫獣なのだ、この中年男性は。
「ちょっと、触らないでくさい」
「肝心の”だ”が抜けてるわよ? うふふ、変わらないのね~。クロさんもお久しぶり♡」
「シシドさん、これ、ガールズバーってどういうことなの? 聞いていた話と違うんだけど」
「うーん。話せば長くなるのよね~。それでも聞く?」
「あんまり興味ないし、汗かいたのでソーダ割りでも飲みたいっすね」
ぼくが正直を口にしたので、とりあえず入店することとなった。
中は広かった。平屋っぽい見た目のまま、横長の店である。入店と同時、ぼくは木更津キャッツアイを思い出した。あの岡田クンたちが屯していた、佐藤隆太の開いている店によく似ていたからだ。あれほど内装に凝っているわけではないが、なんというか、退廃ぶりが近い感じがする。
時間的に開店前だからだろう、他の客はおろか、従業員さえも見えなかった。
「なんていうか……がらっと雰囲気が変わったね」
クロさんがいささか茫然とした様子で言う。ぼくは納得する。元々ぼくたちが通っていたシシドさんの店は、ドギツいカラーリングをしながらも、まあ洒落ていると言えなくもないデザインをしていた。シシドさんには少女趣味的なところがあって、可愛いドールなんかを飾っていたのだ。それが、このガールズバーと言い張る、今のところはどこにもガールのいない店には、あの人形たちの姿は見えない。ゴシック趣味というよりは、単にホラー調といった方が早いトルソーが端の方に置いてあるだけだ。そのトルソーが、どういうわけか小さい女の子が提げていそうな肩掛けのバッグを持っているというからさらに怖い。なんなんだよ。
「なんか木更津キャッツアイっぽいっすよ、ここ」
「あ~、言われてみたらそうかもね。懐かしいわ~、あの頃の岡田クンって国宝級のイケメンだったわよね」
「まあ、御託はいいからとっとと酒を作ってくださいよ」
「うふふ。ますます態度が大きくなったわね~」
バーカウンターには以前の店よりも多くのウイスキーの瓶が並んでいた。シェリー樽に漬けたスコッチを好むシシドさんだが、ぱっと見はバーボンが多いように見える。ひょっとして、常連にバーボン好きが多いのかもしれない。
ぼくとクロさんはそれぞれに好みのグラスを作ってもらい、乾杯した。
なんだかんだ言いながらも懐かしかった。テーブルの向こうで、やけにニコニコとした顔でこちらを見つめるシシドさんと、酔うとすぐに昔を思い出して泣いてしまうクロさん。ぼくが煙草に火をつけると、すぐに肺に悪いと怒りだすシシドさんと、全員酒飲みなんだから健康なんか気にしたってしょうがないじゃないかと言うクロさん。
この面子で飲んでいると、ぼくはどういうわけか、いつか死ぬのだな、としみじみ思う。そして、死ぬ寸前にはこういう絵を思い出すのじゃないのかと予感する。勘違いしないでほしいが、彼女や友達と遊んでいる時の方が楽しいし、幸福度は高い。それでも、どうしてもそう思ってしまうのだ。呪いか?
「で、シシドさん。どうしてガールズバーなのさ?」
早くも顔を赤くしながら、クロさんがたずねた。
シシドさんの顔が暗くなった。ピアース・ブロスナン(ジェームズボンド)が来てもサマになる店が理想だといつも言っていたシシドさんだ。それをガールズバーなんていう俗な店に変えたのは、なにか悲しい理由があるのかもしれない。
シシドさんは、暗い表情のままこう言った。
「理由はないわ。そのほうが金になると思ったからよ」
悲劇も何もなかった。
「ふざけんなよテメェ」
「しかも驚くことに、全然お客さんが来ないのよ。どうしてだと思う?」
「逆に聞くけど、なんでガールズバーと謳いながらオカマの店主しかいねえ状態で客が来ると思ってんの?」
頭わいてんのかな?
「ち、ちがうわよ! 今はあんたたちしかいないからこんな状態なだけ。普段はいるに決まっているでしょ!」
あ、よかった。さすがにそこまで”イカレ”に両足を突っ込んでいるわけではなかったらしい。
「あら、嬉しそうね。郁夫クン」
「そりゃまあ。おっさん2人と飲んでいるところに、女の子も来るって言われたら嬉しいっすよ」
「あ、今日は来ないわよ? 夜通しあんたたちと飲むつもりだから店は開けないし」
「ふざけんなよマジで」
「あら? でも、ひょっとして、レコちゃんって今日泊まりに来るのかしら? あの子、なんて言っていたっけ……」
そんなことをつぶやきながら、シシドさんはスマホを確認しはじめた。
なんのことやら。
外がにわかに暗くなってきた。ぼくは田舎に慣れていない。街灯がろくにない街で、夕刻を回るとすっかり闇に染まるのを見るのは少し怖くなる。遥か遠くにファミリーマートの緑色の光が見えたが、それくらいだ。
その割に、外からはそれなりに喧騒が聞こえる。
どうやら、窓の反対方面は賑わっているようだ。
「飲み屋が多いのよね~、この町。あたしが小さい頃からそうだったわ」
「シシドさんってここ育ちなの?」
「そうよ? まさしくこのへんね。言ったでしょ? 両親に介護が必要になったから帰ってきたって。うちの実家は寂しいわよ~。あとで見に来る?」
「世界で1番興味ねえよ、シシドさんの実家」
「おいしい佃煮とかあるわよ?」
「いらねえ」
「飲み屋というより、なんかキャバクラとか多いよね」
クロさんが言った。
「来る途中で看板を見たよ。ホストクラブもあるってね」
「そうなのよ~。不思議よね、こんな町並みなのに。でも、こう見えてもこの県だとこのあたりって人が集う方なのよ。もっと大都市に出る前の足掛かりというか。そのせいで変に都会に憧れている人たちが、変に都会の真似をしているのよね~」
「だからシシドさんもガールズバーにしたわけ?」
「そういうこと。でも失敗ね~。他に競合他社がいるのに新規でやるのはよくなかったわ。普通にゲイバーとかにしたほうがよかったのかも?」
そう言われると、シシドさんがゲイバーを開いていない理由は謎だ。これに関しては昔聞いた覚えがある。詳しい事情はわからないが、当人曰く、自分は完全にゲイというわけではないらしい。かといってバイというわけでもないそうだ。ひょっとしたらノンセクシャルな人なのかもしれない。でもだったらぼくにべたべた触ってくるのはやめてほしいものだ。
*
「死ゲーム」というものがある。
なにかというと、じゃんけんをして、負けた人が酒を飲むという終わっているゲームだ。
勘違いしないでほしいが、ぼくたちは大変マナーのいい酒好きだ。定価8000円以上もするような良質なウイスキーはきっちりストレートでいただくし、アルコールのもたらす心地いい充足感に身を浸す喜びを知っている。決して、酒の味を覚えたばかりの、ほろよいやストロングゼロでうぇいうぇい言っている頭の悪い大学生ではないのだ。まあ、ぼく自身は大学生ではあるのだが。
それでも、いい年をこいた大人たちでも、ある程度の酒が入ると非常に頭が悪くなるタイミングがあるのだ。なんかこう、超えてはならないラインを超えたときのよくわからない感覚があるのである。そうなると、死ゲームがはじまる。
大体、悪いのはシシドさんなのだ。なんてことのない世間話をしながら、当然のように3リットルもある巨大なジャックダニエルを取り出して、ショットグラスを配置し始めるのだ。そうすると、ぼくとクロさんは覚悟を決める。なんだかんだ言いながら、結局は死ゲームに参加するからだ。そして、ぼくたちは特に合図もなくじゃんけんを始める。で、負けた人がぐっと煽る。それを繰り返すのだ。
いつまで?
死ぬまでだ。
というわけで、ぼくたちは死んだ。
とはいえ、死にもグレードがある。ぼくは酒が強い。めったなことがなければ、「死んだ」と言えるところまで死ぬことはない。それでも、この日はぼくが死んだ。これは単純に、じゃんけん運の話も絡んでくる。ちなみに、まあまあ死んだのがクロさんで、割と余裕なのがシシドさんだった。
ぼくとクロさんは、近くにビジネスホテルを予約していた。
あとから聞いた話だが、クロさんはちゃんとそこに行ったらしい。
ぼくはというと、気づいたら店のソファに倒れ込んでいた。なぜかシシドさんの着替えのタンクトップを枕代わりにしながら、光るネクタイを緩めることすらなく、ばったりとガールズバーに倒れていたのである。
深夜何時の話だっただろうか。
ぼくは最悪の気分になりながら目が覚めた。ぼくは朝シャンではなく、夜に普通にシャワーを浴びたい人間だ。歯を磨かずに寝たのも最悪だし、オカマのタンクトップを抱きながら寝ていたのも完全に意味不明だし暗い気持ちになる。
スマホの充電がほとんどなかった。
ぼさぼさの髪で立ち上がり、2人の姿を探した。
そこにはおっさんたちの姿はなかった。
代わりにいたのは、ぎらぎらの金髪をボブカットにしている女の子である。その子は、店の隅で体育座りして、サッポロポテトを食べながら、ドンキによく売っている甘いリキュールをロックで飲んでいた。
「あ、起きました?」
「……起きました」
わけのわからないままにぼくはそう答えた。
「ふふ。髪、ベジータみたいになっていますよ」
「カ、カカロットのことか……」
「? なんか台詞間違っていません?」
認めよう。ぼくは緊張していた。おっさんだらけだった場所に急に顔のいい女をつっこむなよ。
まあ、そうだ。あまり忘れることのない。
これが、レコラとの出会いだったのである。
とか書いたけど、べつに運命もロマンも何もないんだけどな。
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