あなたの小説が面白くない理由

 ひさしぶりにこうして記事を書く。オモロゲームをプレイしているときは、こうした突発的な記事を書く機会がうしなわれがちになる。

 ぼくのnoteを見ていてぼくのツイッターを筆頭としたSNSを把握していない層はいないと思うからわざわざ言うことでもないが、最近は仕事をして、時間が空いたらウマ娘をこなして、仕事をして、ウマ娘をこなして、というルーチンを消化している。本はあまり読んでいない。いや、読めよ。なんなら物を読むのは作家業ではほぼ仕事の一環だよ。

 重々承知しております。

 さて、情報解禁となったので改めて書くけど、六月刊と相成った。二年越しの梅雨刊である。二年と軽く言うけど、短い人生のなかでこれだけ間があいたというのはけっこうとんでもない話だと自分では思っており、今後はがらりと意識を変えるべきだと考えている。もっとも、それはどうしたって必要な期間ではあったのだけども。

 売り方云々については可能な限り努力するつもりがある反面、同時に、やはり神のみぞ知る領域であるとも思っていて、結局は市場淘汰の結果であるのだから一個人にできることはたかが知れているとも考えている(本を作っているチーム全体ということではなく、あくまでぼく個人という話でいえばだが)。それこそ商業努力で状況を変えるひとは業界に多いし、それは正しい努力の仕方であると思うが、自分にできる/できないことを間主観的に正確に見定めるというのは、それはそれで必要なことだ。つまるところ、ぼくにできる仕事というのは、ぼくの本を読んでくれたひとに「これは次もぜひ買いたいね」と思ってもらうというのが関の山であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。それは本来の意味で、つまるところという言い方になるが。

 そしてまあ、そういったことに関してはとくに心配はしていない。作家が評価されるべきは常に次であると思うから、ぼくがおそれるべきはどうしたって次の原稿でしかないのだ。そして、そうしたことを続けていくしかない。気づいたらそういう場所に身を置いていたのだから、それはもうしかたのない話なのだ。第一、恵まれている話といえる。

 ともあれ購入を検討していただいているかたには、何卒よろしくと申し上げたい。きっとだいじょうぶだと思う。なんといっても、いかなる読者や編集者をも含めたうえで、ぼくにもっとも厳しい評価を下すのは、いつだってぼく自身なのだから。

 さて、記事タイトルについてである。

 この2年は、結果的に小説についてよく思考するはめになった。すべてを書くと最低でも2万字くらいかかりそうだが、これはいろいろなことに片が付いたらnoteにあげるつもりだ。さらっとだけ中身に触れると、「2021年にわざわざエンターテインメント小説を書くということについて」という話になる。娯楽が溢れた現代で、文章でしか内容を表せないエンタメをどうして書くのか? そしてもしそれを書きたいのだとしたら、われわれはどういった方向に進まなければならないのか? そういったことについて、ぼくが理屈でいって正しいだろうと自分で結論できた話を書くつもりだ。

 だが、ご存じ雑多な思考をする人間なので、上記の脈絡からは漏れるような傍流の思考もいくつか得た。ここではその、メインストリームから外れてしまった思考を投げて供養しようと思う。有り体にいえば、ぼくが物を書くときにもっとも気にしていることの話になる。そして、あなた(わたし)が書く小説がつまらない理由にもなる。

 こちらは雑記的になると思うがご容赦願いたい。

 「物の面白さ」とはなんだろう、とよく考える。これはまあ、本当によく考えることだ。当たり前の話だが、ぼくがまったく面白くないと思うシナリオを、それはひょっとしてギャグで言っているのか? というくらいに褒めちぎるひとがいる。逆もまた然りで、ぼくがなぜこれの面白さがわからないのだ? と思う優れたシナリオに、まったく興味を示さないひともいる。

 まあ、すべてのひとが同じ物を面白いと思う社会になってしまったら多様性がゼロであるという意味で、要は近く滅びる共同体となったという証拠であるので、それ自体はまったく構わない。好きな物が異なるのは、人間みな違う嗜好を持つものなのだからしかたがない。だからこの話は、もっと視点を一点にフォーカスして考えるべきなのだ。つまり、われわれがとある物を面白いと思うとき、あるいはひとにそう告げるとき、そこに間主観性を持たなければならないという話となる。

 「間主観」というのはぼくの好きな言葉であり、多用もする(さっきも前書きでしれっと使ったような気がする)。もとは現象学の用語だが、「客観性を意識したうえで主観の話をする」という意味だと噛み砕いてしまって差し支えはない。より正確にいえば「自分が主観に基づいて発言をしていることをつねに自覚する」ということにもなるが、いずれにせよ俯瞰的な指向性を持つ言葉であることに変わりはない。

 あるいはこう説明してもいい。「あなたが面白いと思っている物は、相手も面白いと言ったときにのみ、面白いということにしてもよい」。このほうがよりわかりやすいかもしれない。

 たとえば、ここに1冊の小説がある。あなたはそれを読む。あなたはとても面白いと思う。だが残りの99人はまったく面白くないと言う。それでも面白いと主張するのが主観であり、ここで相手の意見を踏まえたうえで判断することを間主観という。このように述べると、それは単にひとの意見に流されているだけではないか、という指摘を受けそうだが、実はそうではない。間主観は基となる主観が存在しないと成り立たないため、すべての評価をひとに投げるような客観とはまた異なるものだからだ。なにより、間主観というステップを踏んだうえで選択される主観は浄化されているともいえる。

 とはいえ、ひとの意見に流されているという言い方は間違ってはいない。たしかに、あなたがそれを面白いと主観したなら、ほかの全人類がつまらないと言ったとしても、それはあなたにとっては価値のある物だ(とはいえ、このような話にたとえれば考えも変わるかもしれない。あなたが河原で石を拾う。それはきれいな石だが、宝石ではなく、また鑑定の結果1円も値段がつかず、ほかのひとも決して価値を感じるものではない。それでもあなたはその石に価値を感じて、生涯大切にするだろうか)。

 だから、こういった相違が問題化するなら、それはなんであれ交流が必要となったときだ。ここでいう交流とは、広義である。もっとも身近な事例に落としこむなら、たとえばあなたが物を書きたい(他者と交流したい)と思ったときは、やはり主観だけでは成り立たないのだ。

 主観はとても大切な要素だ。これは物を書くひとであればよくわかるだろうが、創作のエネルギーにおいて主観性は決して欠かせない。あなたがどっぷりとはまりこみ、あなたが至上の魅力を感じるような創作物でないと、当然ひとにも魅力を伝えることはできない。

 だが、これもまた物を書くひとであればよくわかるだろうが、出来上がった原稿を直すといった行為は、主観のみではけっして完成しない。だからこそあなたはいちど完成した原稿を置いて客観性を取り戻そうとする。その「客観性を取り戻そうとする」が、有り体にいってしまえば間主観に歩み寄る行為というわけだ。

 もうひとつ、異なるレイヤーの話をする。

 あなたが物を面白いと思ったとき、免れ得ないものはなにか。それはあなたの持つ「好み」だ。嗜好性といってもいい。つまり、あなたには明確なフェチズムがある(広い世のなかにはフェチズムがないというあまりに無味乾燥な人間もいるが、そのひとたちの例は措いておく)。

 それはどのようなフェチズムでもいい。男の性欲を満たすことにしか興味のない女がしなりを作って迫る、ごく視界の狭いミソジニー的恋愛作劇でないと興味がないというのでもいいし(※これは大変に揶揄した言い方である)、今が令和であることを忘れた凝り固まった文体で書かれる時代劇やSci-Fiでないと嫌だ、というのでもいい。これはすばらしい事実だが、実は好みというのはなにに対して抱いてもいい。あなたが好きなら、それはれっきとした、あなたが好きな物なのだ。自分の例でいうなら、ぼくはマスクが登場して伏線がしっかりと回収される、最後には人間関係に焦点が向く少女漫画のような話が好きだ。これもまたぼくの好みであり、そしてだれかに迫害されるべきものではない。

 (ここで再度注釈だが、今この文脈は「あなたが物を書くなら」という方向に向かっている。あなたがただ物を読むだけなら、あなたはなにも気にしなくていい)。

 読者の側に立てば、この嗜好性に全力で傾倒したものばかりを読むという行為はまったく問題がない。この世にごまんといる作家が書くありとあらゆる物語というのは、すべてあなたのニーズを満たすために存在している。フェチズムがニッチであればあるほど探すのは大変になるが、ぜひ一生懸命探し、そして好きに読み漁っていただきたい。

 繰り返すが、難しいのは物を書く場合だ。あるいは直接書かずとも、売るほうの立場の場合だ。そのとき、あなたが「これは面白い」と感じたものが、どれだけ自分の主観に依存したものなのかを意識し、可能な限り理解しなければならない。たしかにそれは、あなたにとってはすばらしいものかもしれない。だがほかのひとにとってはどうなのか? これがわからないのは、自分以外の全員が悪いと断言するか? それともあなたが自身を修正するべきなのか? ここを判断するのが間主観性となる。

 作家の側の具体例で、もう少し掘り下げよう。というよりも、ぼくの意見としてまとめてしまおう。

 作家としてのぼく、つまり呂暇郁夫の仕事は「面白い話を書くこと」だ。そのとき、ぼくは当然自らの主観から「面白い」を探す。さきほど上で具体例を出したから、とりあえずそれでいい。ぼくはそれを書くと決める。シナリオと配置すべきキャラクターを考える。そのうちただ考えるのがだるくなってとりあえず書き始める。矛盾などが生まれるが都度直しながら進めていく。そうして、とりあえず第一稿が完成する。

 ステップとして説明すればそれだけのことだが、その第一稿の完成までに、ぼくはすでに何度も主観を排している。つまり、「ぼくが読むならここはこうなったほうがよいが、読者はぼくではないのだから、ここはこうしなければならない」という思考が、何十、何百回も起こる。ぼくはそうした行為を「翻訳」と称している。

 そう、ぼくが行っているのは翻訳なのだ。あるいは、あなたがたが行っているのは。

 ぼくのなかに「面白い」の原典が存在する。それは言葉ではなく、あるいは思考でさえなく、その状態では読み取ることのできない概念だ。それをひとに伝える(原稿化する)ために、ぼくはわざわざ原典を翻訳しなければならない。その際に、ぼくは言語を選択する必要がある。ぼくが選ぶのは当然、英語だ。ぼくは世界でもっとも使用人口が多い言語を選ぶ。もし仮に、主観としてのぼくが日本語やロシア語を選びたかったとしても、そのほうがぼくにとってはより面白かったとしても、あるいはぼくやごく一部のだれかにとってはより面白かったとしても、ぼくは頑として英語を選ばなければならない。

 当然、この場合の英語というのは比喩だ。小説を書くとき、ぼくは精いっぱい間主観的に物事を捉えようと努力して、この表現、このキャラクター、このストーリーラインこそが最大多数にとって理解しやすいものだろう、という自己完結型の思考プロセスを踏まなければならない。その「最大多数にとって理解しやすいものにする努力」を、ここにおける英語としている。

 ぼくの翻訳は大変に難航する。結局のところ、ぼくの好みはかなりニッチなほうに属するのだ。男の性欲といった、多くの男が持っている欲求をベースとしてなにかを作り出すのであれば、あなたは翻訳にそこまで凝る必要はない(著者と読者の間にわかりやすい共通項が存在するからだ。言い換えるなら、それは翻訳しやすい原典だからだ)。だが残念なことに、ぼくにはただの性欲を描くことに対する執着がないのだ。そしてだからこそ、ぼくは翻訳しがたい原典を、それでも万人が理解できるように翻訳しなければならない。仮にぼくが女同士が密に接する話のほうが好きであったとしたら、女同士が密に接する様子を「面白い」と感じる人間以外にもよく理解できるように、うまく翻訳しなければならない。

 簡単に言っているようだが、これはおそらく創作においてもっとも難しいことなのだと思う。なぜなら、優れた翻訳ができているひとは全体の、適当な数字でいって1%にも満たないからだ。

 あなたの小説が面白くないのは、あなたの思う「面白い」の質が低いからではない。それはひとえに、あなたに翻訳力が足りていないからだ。自分の「面白い」の原典を、あなたはネパール語でしか引き出すことができていない。それはネパール人たるあなたや、ほかのネパール語を理解できる一部の人たちにとってはたしかに珠玉の名作かもしれないが、残念なことに大多数の人間はネパール語がわからないのだ。「面白くない」と言われているというよりも、「わからない」と言われているほうが近い。そのネパール語のジョークは、たしかにものすごく面白いのかもしれない。だが単純に、わからないのだ。そしてあなたの仕事は、物をわかるように書く、というシンプルな命題を持つ。つまり、英語で書けと言われているのだ。

 この文脈における英語習得のためには、さまざまなスキルが必要とされる。まず単純な語彙力や知識力の問題があり、またどれだけ多くのジャンル(それこそライトノベルに始まり、人文科学やハードSFや歴史書に至るまで)を広く深く読んできたか、すなわちあなたがどれだけ物の幅といったものを理解している人間なのかが試される。あるいはこれがもっとも大切かもしれないが、あなたがどれだけ読者(人間)と接してきたか、という要素も大きい。翻訳力の高い小説を書くという行為は、サシで飲んでいる相手の様子を窺うといった行為に大変に似る。あなたがなにかを話す。相手がつまらなさそうだったり、興味がないことを隠すふりをしていたり、とにかく「どうやらわからなさそうだぞ」と察知する。そうだとしたら、あなたはすぐさま話題や話法を変えなければならない。話法を変えた結果、相手が共感できていたり、あるいは理解できている反応になれば、あなたは話を続けてもよい。

 物を書くという行為はつくづく総合的だ。あなたは総合的に、とにかく聡くあらねばらない。でなければ、女の子が退屈で欠伸をかみ殺していることに気づかず、自分だけが酒に酔い、なにかどうでもいい学生時代のショックだった出来事について延々と30分も語り続けて、すべてがおじゃんになりかねない。そして、これこそわざわざ言われずともわかるだろうが、女の子を退屈させるような男はなにをやらせてもだめだ。おそらく鉛筆削りもまともにできまい。

 最後のほうになって余談となるが、ぼくがホストと話すときに(このひとが小説を書いたらさぞ面白いだろう)とよく思うのは、まさしくそのあたりが理由だ。だが現実的な問題として、彼らは相手のリアルタイムの反応などには非常に聡い代わりに、語彙力や読書量などは若干だけ足りないケースが多い。もし読書家のホストがいれば、彼は容易に出版程度まではこなすだろう。そしてあなたも知っての通り、よく売れているエンターテインメント小説家というのは社交的であることが多い。少なくとも、頭のなかに住まわせている読者が退屈そうにしているか否か、かなりの精度で想像できる者が多い。

 面白い小説を書きたいのなら、本をたくさん読んだうえで、本を読む以外のこともたくさんするしかないのだ。そうすることで、あなたは(わたしは)英語がうまくなっていく。

 ふたつ、ことわっておく。これらの文脈で使用した「あなた」という二人称だが、これはぼくが最近仕事で比喩ではないほうの英語ばかり読んでいるせいでYouから逃れられなくなっているから使ってしまっただけの表現だ。つまり、本来の意味での「あなた」を指しているわけではない。まあ、確率的には99%の人間が当てはまることになっているが、あなたはおそらく違うでしょう(少なくとも、あなた自身はそう信じるべきだ)。

 もうひとつは、読者側の歩み寄りについてだ。これは意図して触れなかったが、当然、マイナー言語で書かれた珠玉の傑作というものを理解するために――さきほどの例でいうなら、ネパール語の傑作を理解するために、読者のほうがネパール語を習得するべきではないか、という指摘が存在するという話だ。これはけっしてまちがいではないし、実際に文壇では行われていることだ。ただ、現状のエンタメ市場においては、読者のほうに努力を促すといった行為が非現実的であるという前提を踏まえたうえで排除しただけだ。ブンガクという広い世界の話においてなら、読者側も著者に歩み寄らなければならない。なぜなら、単一の言語のみが広がった世界では価値観の総量が減少し続け、しまいには多様性までもが消滅するからだ。

 これまで書いたようなことは、当然ぼく自身の戒めといった意味合いもある。なにか少しでも油断すれば、ぼくは英語ではなく閩南語を選択してしまうだろう。そしてもちろん、エンタメ作家としてそんなことをするわけにはいかない。

 ひとは多面体だ。多面体というのもぼくの好む言葉だが、なぜ好むのかといえば、それも原典を翻訳するという行為に直結するからだ。媒体やフォーマットが異なれば、当然翻訳の方法も変化する。ツイートを投稿するとき、ひとと話すとき、小説を書くとき、それらはすべて「面白い」の原典から取り出されているが、出力される提出先が違えば、当然すべてが変わる。noteのぼくも、ツイッターのぼくも、すべてはぼくだ。ただ多面体なだけだ。

 作家の平野啓一郎さんが唱える概念に「分人主義」というものがある。家族と話すあなた、恋人と話すあなた、友達と話すあなた、どれも異なるあなただが、そのどれもがあなたであることに変わりはない。あなたは、自分が多面的であることを認めるべきだ。一面的であることはラクだが、ラクであることが幸福であるとは限らない。

 ぼくはとある漫画が大好きだ。心の底からすばらしいと思うし、その漫画の持つありとあらゆる魅力を言葉で説明することもできる。だがそれは、その漫画の著者が持つ「面白い」の原典と、ぼくの持つ「面白い」の原典が、単なる偶然として非常に似通っていたからに過ぎない。つまり、それはあくまでぼくの嗜好性に準拠するものだ。だから、ぼくはそれをひとに勧めることはしない。ぼくにとって面白い、それだけでいいものも当然ある。

 ぼくがプロの書いた小説を読むときに求めているのは、実は著者が脇に抱えている「面白い」の原典ではない。ぼくがなによりも評価するのは、その著者の持つ翻訳の力だ。ぼくはあなたの原典にうまく共感できないかもしれない。嗜好性は選択できるものではないからだ。だが少なくともぼくには、あなたの翻訳のうまさはよく理解することができる。そして翻訳がうまい作家なのであれば、ぼくは最上の敬意を表する。

 ぼくが面白いと思う作家は多くなくて構わない。ただ、ぼくがうまいと思う作家は、すべからく増えるべきだ。なぜならそれはぼくにとっていいのではなく、みなにとっていいことだからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?