異星人と付き合う

 そういえば去年あることに気づいて「目から鱗だなぁ」と強く思ったけどとくに形として残されなかったことがあるので今かんたんにメモ書きしておく。というのも人間には2種類いて「小説や映画に意味を求める層」と「まったく意味を求めない層」がいるという話だ。

 それはどちらがいい悪いではなく、純然たる事実として、ただ単に意味を求める層と求めない層がある。さらに拡張して言ってしまえば、意味を求める層は感想の幅が広く、駄作を見たら怒り狂うし傑作を見たら無限に褒める反面、意味を求めない層は基本的になにを見ても面白いと思うし、なにを見てもそこまで難色を示すことがないという特徴がある。

 これに気づいたのは頭に書いたとおり去年のことで、ぼくは27歳にして初めて物を見たり読んだりするときに意味を求めない層がいるということを知った。そのときの衝撃たるやすさまじいものがあった。

 ここを読む数人のなかにもきっと「およそ作品と呼ばれる物にはミーニングがあるからひとが面白いだのつまらないだの言う」と信じている、意味を求める層がいると思うけど、それは誤りだということを知ってほしい。世のなかには意味がなくて全然かまわないひとたちがいる。

 なのでクロノロジカル的に回収される伏線や作中で重なり合う要素などといった、創作でもっとも難しい基本とされる部分がなくてもまったく怒らないし、逆にいえばそれがあるからといって評価することもないひとたちがいるのである。まあ、言わずともわかると思うけど、ぼくという人種は完全なる前者、すべての小説や映画にきっちり意味を求める層なので、10年ほど前に日本ミステリ界で幅を利かせていた叙述トリックの傑作とされる小説群を読んだときなどは本当にものすごく怒り狂っていたし、今でも「あれは意味がない」と言う(逆に言えば、『ハローサマー、グッドバイ』のような意味のある叙述トリックにはものすごく感動していた)。でも今となっては、「実はこの男性風に描写されていた刑事は女性だったんですッ」という、仮にそうだとしてだからこの話がなんだというんだ?と疑問符を浮かべざるを得ない小説を見たときも、いやでもこれは意味を求めない層は嬉しいのかもなあ、と受け止められるようになったのである。ちなみにそういう例はたくさん出る。「このSFには大層なタイムトリックが現れるんですッ」と言われても、そのトリックが作中で意味のある形で活用されていなければ「だからなんなんだ?」となる。ぼくは意味のない産物を評価することはない。なぜなら意味がないからだ。

 これまでの書き方では両者はおおよそ半々くらいで分布しているという印象を持つかもしれないが、実は意味を求める層のほうがずっと珍しいのかもしれない。かもしれない、とは言ったがおそらくそうである。なにも事件(広義)が起こらない、ゆえにあまりドラマも生じ得ない人間関係がぼんやり描かれるとき、その場の雰囲気がなんとなく楽しげならばそれでいいというひとのほうがずっと多い。これはべつにコメディに限った話ではなくて、SFやミステリでいってもそうだ。なんとなく探偵っぽいひとたちが現れてなんとなく「それ事件か?」というようなゆるいイベントを解決(消化)するだけで雰囲気が楽しいひともいるし、なんとなく未来っぽい場所でなんとなく能力者っぽいひとたちがなにかをしているならそれだけで雰囲気が楽しいひともいる。そこにエッセンスなど当然求めはしない。これは本当の話だ。本当にそういう層がいるのである。意味を求める層からしたら納得いかない話かもしれないが。

 ぼくはたまに、そうした感動値の上限が低い代わりに下限が高い層のことをうらやましく感じるときがある。なにを見てもぼんやり面白く感じられるのであれば、人間そのほうがいいのではないか?と素直に思えるのだ。そこに意味やエッセンスを見出そうとすることがない。綾野剛主演の「ヤクザと家族」を見ても、この映画の脚本にどんな問題があると思うか聞かれても答えられないが、なんとなくそこにある雰囲気が楽しいから☆4とか☆5をつけたりする。かといって(ぼくの基準で)意味のある映画である、同じ綾野剛主演の「日本で一番悪い奴ら」を見ても、この映画の脚本がなぜ優れているか聞かれても答えられないが、なんとなくそこにある雰囲気が楽しいから☆4とか☆5をつけたりする。彼らは大体すべてに☆4か☆5をつける。そうしてあらゆる映画の評価点に最低保証ができあがっていく。

 とはいえすべての人間が意味があるものを求めると、おそらく1年間で供給される新しい創作物の数は1/100くらいに減ってしまうので、やはりクリエイターが期日のある仕事を行っている以上は意味がない物が生まれていくしかないのだが。

 うらやましく思うときがあるとは書いたが、それは表現の問題で、やはり意味のある物しか求めない自己であることに対する、それなりの執着はある。先に書いたように、意味を求めるからこそ本心から面白いと思えるものに出会える(冒頭の例でいうなら、なにかに怒るからこそなにかにハマることができる、つまりはフェチズムが生まれる)と信じているので、ぼくが尊敬する作品群は、やはりぼくのこういう性質でなければ感じ得なかったものだとすると、それは現状に甘んじるほかないといえる。あるいは、もし物に対する才能が問われることがあるのだとすれば、それは興味と好奇心だろうとぼくが信じているという話でもある。英単語にそのまま割り当てるならUNIQUEだ。ユニークはおそらく、意味のなかにこそ生まれるものなのだ。興味と好奇心が弱い人間の書く話が、ひとを強く引き付けて残り続けるものになるはずがないからだ。

 だが、ぼくがなにを言おうが純然たる事実として無味乾燥な物でも構わないひとたちがいる。味のあるチョコレートチップをとくに求めるではなく、塩も振っていない無地の生地で作った味なしのクッキーでも構わないというひとがたくさんいる(そして文脈に倣うなら、彼らは当然チョコレートチップも変わらずおいしいと言う)。両者にはそのような断絶があるのだが、少なくとも意味を求める層は、意味を求めずに物を読み、また漠然と面白いと感じる層がいるということを念頭に置いたうえで他者と話さないと痛い目を見ると、ぼく自身が学んだという話だ。べつに地球人のほうが偉いということはない。火星に生まれたひとはただ火星に生まれたというだけだ。そして地球人に生まれた以上、火星生まれのひととはそれなりの付き合い方がある。「これは意味がないからだめだ」などという感想は、意味を求めない層に言うべきではない。

 ただおそらく、ぼくの書くような物は地球人しか面白いと感じないだろうなとは思う。だってぼくはまだ火星語を知らないし、そもそも地球語さえまったく覚束ない状態で火星語なんて学んでいる暇はないからだ。

(追記)

 以上の話はもっとも簡単な言い換えができて、要はコンテンツを「暇潰しとして消費する人」「趣向として傾いて得ようとする人」に分かれるという話にもできる。そしてそう書けばよりわかりやすいとは思うが、一時の暇潰しはべつに悪いことではない。

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