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ワークライフバランスを 議論する前に考えるべきこと ─テレワーク研究における実践事例から─

小特集「ワークライフバランス」より

吉見憲二(佛教大学)

  少子高齢化や女性の社会進出,男性の育児参加といった社会状況の変化を背景に,ワークライフバランス(以下,WLB)に関する議論が高まってきている.こうした議論自体は歓迎すべきものであるが,WLBが「家族」の文脈でのみ取り上げられてしまうことには注意が必要である.なぜなら,WLBの登場前にはファミリー・フレンドリーというコンセプトが中心的に用いられてきたという経緯があるからである.従業員から見たWLBとファミリー・フレンドリーの違いは表-1の通りである.ファミリー・フレンドリー施策は対象を「家族」に限定したことが広がりや支持を欠く結果となってしまい,WLBはそうした課題を乗り越えたものとして位置付けられている[1].我が国におけるWLB(仕事と生活の調和)の定義も「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き,仕事上の責任を果たすとともに,家庭や地域生活などにおいても,子育て期,中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる社会」となっており,その対象範囲は育児や介護に限定されてはいない[2].このように対象範囲を巡る議論に慎重さが求められる背景には,誰かのWLBが改善されることでほかの誰かのWLBが損なわれてしまうというトレード・オフの関係に陥る状況が多いことが挙げられる.

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表-1 従業員から見たWLB とファミリー・フレンドリーの違い
(出典:文献[1])

 筆者が以前に取り組んだテレワークに関する調査研究でも,出産・育児に関する制度“のみ”を手厚くした企業において,結果として未婚者・非婚者にそのしわ寄せが集中してしまい,女性同士の間で格差が拡大してしまうことを「女女格差」として問題視する事例に遭遇したことがある[3].人員削減や効率化を要請されるアカデミアや企業の現場では全員のWLBを向上させるような財政的・人員的余裕を持つことは容易ではない.そのため,制度の適用対象を限定することが分断を生み出し,結果としてWLBの普及を妨げてしまう懸念がある.
 それでは,WLBはどのように推進していくべきなのだろうか.ここで提案したいのが,パレート改善というコンセプトである.パレート改善は厚生経済学の用語であり,「ほかの人の効用を減少させずに,1人以上の効用を改善する変化」のことを意味する.たとえば,時短勤務を育児に限定する場合にはそのしわ寄せがほかのチームメンバに及んでしまうことが少なからずある.しかしながら,誰もが自由に時短勤務を取ることができるようになれば,誰が・いつ休んでも業務が滞らない状況が達成され,結果として全員のWLBの向上につながるだろう.テレワーク研究においても,特定の条件を満たした申請者のみがテレワークを実施できる制度の下で利用率が低迷していた企業が,テレワークの対象者を中心とした部署を新設し,制度の利用を原則自由にしたところ利用率が大幅に向上したという事例が報告されている.このようにWLB向上の施策においては,受益者と負担者のトレード・オフではなく,パレート改善となる構図を常に意識する必要がある.
 WLBにパレート改善の視点を導入することは必ずしも既存の施策の後退を意味するわけではない.たとえば,学術集会に託児所が設置される事例が増えているが,託児所の存在が個々の参加者の効用を低下させることは考えがたい.他方で,介護や病児が理由となるケースについては,託児所の設置だけでは対応することは困難である.それでは,遠隔参加はどうだろうか.遠隔参加が可能となれば,介護や病児が理由となるケースについても対応が可能となるだろう.それだけでなく,交通費や宿泊費の負担ができない人や講義や会議等の都合が付かない人,個人的な事情で予定を調整できない人まで多くの潜在的な参加者に受益が及ぶことが期待できる.このようにパレート改善を求めることは全員を悪平等に扱うことではなく,受益と負担の関係を固定化しないことを第一義としている.
 最後に,研究者を取り巻く環境の厳しさについても言及しておきたい.本小特集のようなWLBに関する議論がある一方で,十分な仕事を得られず文字通り命が危ぶまれる立場にいる研究者も少なくない.現実世界では,仕事が多すぎてWLBを崩している人間と仕事がないことでWLBを崩している人間の両方が存在しているのである.このような偏りこそがWLBが本来アプローチすべき課題ではなかっただろうか.「優秀な研究者が育児や介護を理由として研究を遂行できなくなること」を問題視する意見は一見して正しいように思われるが,「優秀な」や「育児・介護」をWLBの議論の前提とすることの危険性については改めてこの場で警鐘を鳴らしたい.
 限られたリソースを奪い合い,厳密な理由を問い続ける社会では,本当の意味でWLBが根付くことは難しいだろう.本稿がそうした現状を顧みる一助となれば幸いである.

参考文献
1) 坂爪洋美:ファミリー・フレンドリー─ファミリー・フレンドリーからワーク・ライフ・バランスへの転換が意味すること, 日本労働研究雑誌, No.609, pp.54-57 (2011).
2) 仕事と生活の調和とは(定義)(内閣府), http://wwwa.cao.go.jp/wlb/towa/definition.html
3) 筬島 専,吉見憲二,豊川正人,竹村敏彦,海野敦史:女性の就業促進のためのテレワーク利用に関する課題, GITI/GITS 紀要(2008-2009), pp.156-165(2008).

(「情報処理」2019 年8月号掲載)

■吉見憲二(正会員) yoshimi@bukkyo-u.ac.jp
 2012 年早稲田大学大学院国際情報通信研究科博士後期課程修了,博士(国際情報通信学).同研究科助教を経て,2015 年より佛教大学社会学部現代社会学科講師,2018 年より同准教授.専門は情報コミュニケーション,情報社会学.
注:掲載当時。現所属・アドレスは成蹊大学(yoshimi@bus.seikei.ac.jp)となります。

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