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「花嫁のれん展」回顧録

残念ながら、コロナのために幻の17回花嫁のれん展になりました。来年は、ぜひみなさんのれんと語りを楽しみ来てください。

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~ 平成16年4月29日第一回花嫁のれん展オープン! ~

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第一回「花嫁のれん展」は、平成16年4月29日に始まりました。母の日まで約2週間。大型店の出店で七尾も商店街が疲弊30年、何とかしようと立ち上がったのが一本通りの女将さん達でした。町会一丸となって開催の運びとなりました。

お客さんが来てくれるのか、期待と心配とに包まれ初日を迎えました。開幕式典を一本杉通りの入り口仙対橋のたもとで開催、晴天に恵まれ、たくさんのお客さんに来ていただくことになりました。

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「花嫁のれんは、女性の宝だった。」

 第一回花嫁のれん展では、新聞でのれんの提供をお願いしていたので、ある時、電話で問い合わせが来ました。「花嫁のれんを提供したいが、保険をかけてくれますか?」みんなびっくり、「断れ!断れ!」みんな花嫁のれんが宝だなんてその時、だれも思っていませんでした。だから一本杉通りの商店及び個人の家にも展示することができたのですが、女性の宝だったから花嫁のれん展が17回も続くことになりました。 

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 第一回花嫁のれん展を開催するのに、心配したのがお客さんが見に来てくれるか?大型店の時代に入り商店街のイベントにお客さんが来てくれなくなっていたからです。そこで皆で考えたのが、のれんを皆さんから借りたら、貸してくれたくれた人だけでも家族や友達を誘って来てくれるのではと、新聞に掲載していただきました。
展示の花嫁のれん全部で52枚の内20枚金沢、小松、羽咋、などから借りることになりました。

 髙澤勇吉商店のおばあちゃんがとても喜んでくれたのが忘れられません。「お陰で親がたいそうして作ってくれた花嫁のれんが、こうして飾ることができとても嬉しい。・・・・」
その花嫁のれんです。

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 花嫁のれんが手のと届きそうな、手のと届くところに展示してあるので「触っていいですか?」と尋ねる女性が多いので。「いいですよ!」と触ってもらっていました。古着だと思っているもだから、ところがのれん展が終わって、専門家の方からひどくお叱りを受けました。「何をを考えているのだ、女性の宝だ、洗濯もできないし、汚れが残るでしょう!宝石をジャラジャラ触らせているようなものだ!」


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 花嫁のれん展をやろうと目標ができると色々案が出るもので、350mの一本杉通りを歩いてもらうので、疲れるだろうと、床几を作ることになり、町会と振興会のみんなが一本杉公園に集まり100脚余りの床几を完成させました。更にはマイナスイオンを浴びて元気になって帰っていただこうと、それぞれの床几の中に、1200度以上で焼いた竹炭を入れました。それに赤い毛氈を掛け町会・振興会の会員宅の前に配置し一服していただくことになりました。

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 花嫁のれん展は、町会で開催することとなり、商店のみならず町会のみなさん全員に協力を呼びかけ一丸となって開催することになりました。玄関や窓などにも展示して参加していただきました。開催期間も、成功させるため全国的に有名な曳山祭り「でか山」(5月2日~5日)に合わせ、4月29日から母の日までと決めました。

「やっぱり花嫁のれんは、女性の宝だった」
一本杉通りで花嫁のれん展を開催したのが平成16年、ところがそれより10年前平成6年に、同じ加賀藩の氷見・高岡で花嫁のれん展が開催されていました。氷見・高岡のみなさんは、花嫁のれんが女性の宝であることを知っていた。だから開催の会場を、氷見は博物館、高岡は美術館で開催されたのです。ケースの中に見るのれんと、目の前で、風に揺れ、手を出せば触れれるほどのところに見るのれんには、女性を引き付ける魅力が全く違ったのです。

一本杉通りの花嫁のれん展では、第1回では53枚、それから回を重ねるごとに増えて今では170枚位にまで増えました。一箇所でこれだけたくさんののれんが見られるのはここだけです。従って友禅関係の方もたくさん見えます。

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 花嫁のれん展なのでどうしても女性のお客さんが多いなか、ある日、金沢からのお客さんで友禅関係の仕事の方だったかな、やがて30分もお話をした後帰り際に、お願いがありますと「ちょっとのれんに触らせて戴けませんか?」やっぱり女性は布に弱いのだ?

 花嫁のれん展をやって、女性の内に潜むもの、「布に触りたい」との気持ちが強いのがわかりました。これは、布作りは大昔から女性の仕事だと云うことだと思います。いつも布に触れていて、見る布、見る布そっと触れると、ほっと言葉で云えない満足感があるのだと思います。
男性のネクタイも、きっと女性を引き付けるために始まったのでは?

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 文化出版局の第1回花嫁のれん展の取材は30頁にも及び、他に花嫁のれんについての資料がなく、「季刊銀花」2005春第百四十一号を、手元に置いたり、希望者に販売したりして、人気があり2年余りで売りつくしてしまいました。どうしても資料が必要だったので、文化出版局にお願いして、30頁を抜粋して冊子を制作して頂きました。

第1回の花嫁のれん展の取材がもう一社「バナナブックス」からあり、担当者の方が下見に来ていただきました。カメラマンの都合で6月に来ますのでよろしくとの連絡に、当時はみんな元気だったんだ、「のれん展も見ないでのれんの写真は撮れないから断れ!」バナナブックスの社長石原さんも負けてはいなかった、「行きますのでよろしく!」
全国各地の蔵や民家、屋根、暖簾などの分野でユニークな写真家高井潔さんと来て、花嫁のれん絵葉書集を出版して頂き、第2回花嫁のれん展からみんなで販売しました。また高井潔さんの写真集「日本の暖簾 -その美とデザインー」グラフィック社 にも掲載して戴きました。

第1回花嫁のれん展が終わり、ぽつぽつと視察の人たちやちらほら観光客も来るようになり、街の人たちが街に関心を持つようになりました。
早速、ごみゼロ宣言をしようと提案が出てきました。その頃街は、犬の糞害やタバコのポイ捨てに困っている時でした。子供会、婦人会、青年会、振興会、町会と全員で一本杉通りごみゼロ宣言をして、週2回出す可燃ごみの計量記録を始めました。お陰で、ゴミの量は2,3割減量、犬の糞害、タバコのポイ捨ても徐々になくなってきました。やっぱり声を出して宣言してみるものです。

第1回花嫁のれん展が大盛況の内に慌ただしく終わり、やれやれこれでお茶でも飲んで一服お休みだと、ほっとしたところに、事もあろうに視察の申込が「元気な街、一本杉通りを視察したい。」と、元気な?視察?のれん展が終わって何もない通りへ?大型店の出店で疲弊した街に?350mの一本杉通り商店街で歩いて15分もかからず終わりです。

第1回花嫁のれん展が終わって、ほっとする間もなく、7月に早速3組の視察の申し込みが来ました。どうする?350mの一本杉通りを15分で帰ってもらう訳にもいかず、いろいろ考えて、とにかく通りの人たちとお茶でも飲んで、お話を聞けばいいのではと懇談会を開くことにしました。平成16年の年末までに全部で14組の視察の人たちが一本杉通りを訪れました。

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第1回花嫁のれん展のチラシが出てきました。ご覧のように、第1回と印刷されていません。とにかくこのイベントにお客さんが来てくれるかどうか?なんとか来てほしい!お金はないよ、何とか手作りでA4のコピー用紙にコピーしてチラシを作りました。みんなで知恵を出し合って必死でした!でもとても楽しく頑張りました!


花嫁のれん展も終わり、平生に戻った静かな一本杉通りを案内して、視察のみなさんの声を聞きました。14組の視察のみなさんの声はほとんど同じでした。
①「いい雰囲気の通りですね。」
②「道路の幅がいいね。」
③いろんな店があっていいね。」
④「古い家新しい家があっていいね。」
何かもっと一本杉通りを宣伝するのに良い声があるかなと期待をしていたのですが
①は、一本杉通りが奥能登に向かう雄一の歴史ある古い街道だからだと思います。
②は、「真ん中を歩くと両側の店に入りやす」とのこと
③昔は、能登の銀座通りと云われるほど賑わいがありましたが、今では観光客の訪れる店は、数軒で商店街と云われるだろうか?
④は、店を止め家を建て替えたり、空き地に新しく家を建てたり、しかし一本杉通りはほとんどが自分の家で商売をしていて、商売を止めても、ここで生活をしているので、他の商店街のようにシャッター通りの雰囲気がありません。それでいいのだな!

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花嫁のれん展が終わって、地元の人たちからよく云われました「一本杉通りに何がある?統一感もないし!」で、視察のみなさんに「滋賀県の黒壁の街のようにしたいと思うのですが?」と問いかけてみました。皆さんの声は、「何を考えているのかね、この今の一本杉通りの雰囲気ががいいのであって、これを大事にしなさい。」なるほど観光とは、昔からあるその街その街の雰囲気を楽しみに来ていただけるのだ。それから中島の街並みでも田鶴浜の街並みでもとても魅力に感じられるようになりました。今あるものを大事に育てていきたいものです。

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視察に見えたみなさんを仏壇屋さんに案内していました。七尾仏壇は有名で伝統工芸品に指定されています。ある時、作業場で七尾仏壇のお話を聞いて、「時間だから、行きましょう!」と声を掛けると、職人さんと話していた一人のお客さんが、「ちょっと待ってくれ、もう一つ聞きたいことがる。」職人さんが、ぼそぼそぼそぼそと、「さっさと話してくれ、時間がないのだ!カッーと頭にきた時、閃いたのです、そうだこれを売りにしよう、職人さんでも、おばあちゃんでも、店員さんでも誰でもお客さんとお話をしようと、一本杉通りの『語り部処』が生まれたのです。

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 一本杉通りを観光客に端から端まで歩いてもらうのに「語り部処」を募集しました。13軒の申し込みがあり、運よく東の端、仙対橋から西の端、御祓コミュニティーセンターまで並びました。そこで、コピーの語り部処のマップを作り配布することにしました。最初は、田舎の店ですから戸は閉まっているは、人の気配は無いはでお客さんが入りにくかったのですが、店同士で「あの店に行ったら面白いよ」など紹介し合いました。これが功を奏して、350mの一本杉通りを楽しんで歩いて頂けることになりました。

 一本杉通りの視察に、奈良県斑鳩町の一行が見えたことがります。びっくりして開口一番「何を視察に来たのですか?」「年間何百万人もの観光客の訪れる法隆寺のある所から?」「そうです、おっしゃる通りです、法隆寺には何百万人もの観光客が来ますが、私たちの街には一人も来ません。」すべては街が賑わうことです!

 第1回花嫁のれん展が終わって、勢いづいてるころ、御祓川大通りの景観審議委員を引き受けることになりました。ちょうど御祓川大通りが整備されているときでした。図面を見せて頂いて、仙対橋のたもとが幅7mもの歩道になっていたで、ここに観光バスの駐車場を作るように提案したら、県の担当者の方が、「観光客も来ないのにバスの駐車場もいらないでしょう。」と素気無く断られましたが、「人も歩かないのにそんなに広い歩道がいるのですか?」と後に引かず押し通して、今の駐車場ができました。「本当に観光バスがくるのかな?」とふと思ったのですが、結果は、一本杉通り観光に大いに役立っています。

 花嫁のれん展が終わって元気だったもう一つは、同じく御祓川大通りの景観審議委員会の席で、担当者の方が「この大通りは景観上看板は付けません。」「ちょっとまって下さい、大通りは道路でしょう、辻辻に看板をつけないと道路の役目を果たさないのでは?」委員の方全員じろっとこちらを向いて「何を言っているのだ!こいつ!」と目が云っていました。でも負けていませんでした、一本杉通りの案内看板だけ2ヶ所つくことになりました。港の方から来る側と駅の方から下って来る側に、しかし、ある日の委員会の時に、県の担当者の方に一言余分に噛み付いて、看板は一ヶ所だけになってしまいました。余分な一言には気をつけなくては!

 新型コロナウイルスで祭りが中止になりますが、思い出しました。平成19年3月25日能登半島地震が起きました。その時西の曳山ちょんこ山が中止になりましたが、我が町一本杉町の青年会は元気だった、ちょんこ山を組立町内を引き回し祭りをしました。花嫁のれん展は、これも商店街、町会、青年会とみんな元気で、花嫁道中を震災の合った穴水町を道中、のと鉄道に乗って七尾駅に到着、一本杉通りを道中開幕式典を行いました。

 花嫁道中は、平成17年第2回花嫁のれん展から始まりました。一本杉通りの中山薬局の息子さんの結婚式が4月29日のれん展の初日行われるとの情報が入り、早速お願いに行くと快く引き受けて頂きました。これが大変受けてたくさんの人出で一本杉通りが埋まりました。大成功でした。これが冊子「銀花」に次ぐ花嫁のれん展を全国版に盛り上げた二つ目の幸運でした。

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~ 花嫁のれん展 in 名古屋 ~
ご縁が有って東武トップツアーズ七尾支店長丸山さんから名古屋ワイルドフラワーガーデンブルーボネットで花嫁のれん展をやらないかとお誘いがありました。みんな元気で「花嫁のれんは門外不出で出かけられません。」とお断り。予算もありませんでした。「全員ご招待しますからどうでしょう。」と、豹変「行きます。」平成19年11月17日~25日開催、会場の設営照明見事でそれぞれののれんの前で語りが出来て親しく交流ができました。それ以後その時のお客さんで何人かのれん展に来ては声を掛けて頂きました。

「花嫁のれん展 in 名古屋」
ブールボネットは、名古屋港にあり船に乗って会場に行くことになりました。お客さんに心配して頂き「デパートでやればもっとたくさんのお客さんが来たのに?」しかし、初めての経験でもあり少しづつお客さんに来ていただいたのは幸いでした。それぞれのお客さんと交流できたことです。
名古屋に来たので、前田利家の生まれた中川区荒子に行ってきました。花嫁のれんのルーツがわかるのではと、荒子観音寺がありました。のれんのルーツは、わかりませんでしたが、住職によると、利家は、悪い奴で名古屋の良い職人などみんな連れて能登に行ってしまって、ここには何一つ残っていない、あんな悪い奴はいない!とのことでした。
荒子観音寺は、円空仏で有名なお寺で1266の円空仏像があるそうです。

「花嫁のれん展 in 東京」

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平成20年3月のある日、七尾市役所の川原さんから電話があり、「商工会議所の小規模事業者 新事業全国展開支援事業を申請しておきました。私は、県へ出向になります、決まったら活用してください。」「ありがとう。」とそれっきりで忘れていましたところ、6月ころだったかな商工会議所から支援事業が決まりました、750万円です。「えっ!750万円!」一本杉通りのみんなに話すと「750万円!どうして使う?75万なら使えるが?」「お金は無い、無い」でやって来たのでびっくりでした。「400万で東京展、350万で一本杉通りの冊子を作ろう!」で決まりました。

「花嫁のれん展 in 東京」 平成20年10月16日~22日、

東京都指定名勝「旧安田楠雄邸」にて開催

 これも一本杉流で、それぞれののれんの語り手が皆さんに語りをすることとしたので、交通費と宿泊費が他の諸経費より大幅に膨れ、商工会議所から指摘がありましたが、「会場に見に来てほしい、それで納得がいかなかったら考えますが、予算で削るわけには行きません。」と突っ張りました。会議所の担当者の方にはご迷惑を掛けましたが、運よく結果は予算通りに終わりました。
のれん展が成功してすべてがとんとん拍子に進み、又、進んでいました。いろいろ無理を通してきて、今思うとたくさんの方にいろいろ大変お世話になりご迷惑を掛けて、お礼も云わず不義理をしたなと深く反省です。


冊子「出会いの一本杉」

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平成20年度小規模事業者 新事業全国展開支援事業~能登七尾伝統美「花嫁のれん」と歴史街道をゆくまちなかふれあい観光推進事業~
「花嫁のれん展 in 東京」事業ともう一つの冊子制作事業に取り組みました。幸いにもエッセイスト森まゆみさんとの出会いがあり、制作をお願いしたところ快く引き受けて頂き、イラストはイラストレーター太田朋さん、カメラマンは谷口良則さんと、みなさん、一本杉通りのお気に入りの方たちで商店21店舗を取材、とてもユニークな冊子「出会いの一本杉」が出来上がりました。

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「花嫁のれん展 in 関西」 平成23年2月3日~7日
ギャラリー桜の庄兵衛
国登録有形文化財 奥野家 豊中市桜塚
豊中市の関係の皆さんのご協力を得て大盛況に開催することができましたが、のれんの語りを聞いていただくために入場制限をしたところ、苦情が殺到、とうとう語りを止めて自由に入場して頂くことになりました。東京と関西の違いを感じたところです。

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「花嫁のれん展 in 名古屋」
平成19年11月7日~25日
名古屋港ワイルドフラワーガーデン ブルーボネット
(栄から地下鉄で名古屋港まで約20分、水上バスで約10分)
チラシが出てきました。ブルーボネット開園5周年記念 特別展で、開催して頂きました。ここでの実体験が、その後の東京展や大阪展に大いに役立ちました。

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「森まゆみさんとの出会い」

平成15年12月3日森さんのお話を聞く会が一本杉で開くことになり案内がありました。いつものことでいろんな方のお話を聞いて一杯飲むのが恒例でした。そんな気分で行ったら会場はいっぱいでびっくり。一本杉だけではもったいないと市の関係や街づくりの関係の人たちで溢れていました。
なんかちんちゃい人だなとの印象でしたが、お話の中で二つの事がとても心惹かれました。「煉瓦造りの東京駅を残すのに奔走しています。」確か毎日新聞でJRはすでに壊して建て替えするように伝えていました。この小柄で女性でこんなすごいことに取り組んでいるとは?自分もこんなことしておれんな!それから、9年後煉瓦造りの東京駅は残った。毎日新聞に、森さんの功績を称えて掲載されていた。

 森さんは、登録有形文化財の審議委員をされていて、「津幡から奥能登にかけてたくさんの古いいい建物がたくさんあるのに、登録文化財が一つもない。」と云われたのを聞いてひらめいたのです。「能登の第1号の登録文化財は、かって能登の銀座通りと云われた一本杉通りに持ってこなくては!」と。実はその瞬間まで古い建物に全く興味はなかったのです。当店北島屋茶店も明治の建物で西の2回の大火にも焼け残ったもので七尾建築の腕木作りです。

「登録有形文化財」

 これも全く運がよく、平成15年、福井工業大学の市川先生が、5年間七尾の町家を調べ、その年の七尾市の広報の表紙に毎月町家の写真が掲載されていました。早速先生に連絡を取り一本杉通りでお話を聞くことにしたのです。
一方、七尾市に登録有形文化財の申請をお願いするため文化財課を訪問、今でも鮮明に覚えていますが、「あんたは、何を云っているのですか、そんなんものはできません。なんでもかんでも云って来て、お金も無いし・・・」と追い返されました。「これだけは、そうはいかない。」と一本杉通りの皆さんを集め、登録文化財について説明に来てほしいと申し入れをしました。

 元気だったね、市役所に行ったのは月曜日だった、すぐ金曜日に一本杉の皆さんに登録文化財について説明しに来て欲しいとお願いして会合を開きました。登録文化財については市川先生がら聞いていたので、一応話が終わると「申請してほしい。」と申し入れをすると、「お金が無い。」それは、「町会で用意します。」「誰にしてもらう。」「市川先生にお願いします。」「一本杉がそれでよければ」と云うことで市川先生との会合を持つことになりました。1月も終わり2月でしたが4月1日までには市の方に書類を提出しないと平成16年度に間に合わないことになる。先生には大変無理を云うことになりました。

 全く古い町家に関心の無かった町会長が、「町会長の豹変!」と揶揄されながら市川先生との会合を続けました。
3月のある日、「申請する町家を2軒選びたい。」と先生から提案がありました。「ええ!何?先生!先生!何を考えている!」若かったね「先生、登録文化財がほしいのではなく、まちづくりがしたいのです。5軒全部やってもらわなくては困る。」と二晩先生と直談判。先生を説得!


(登録有形文化財の一つ髙澤ろうそく店)

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市川先生なりの理論がありなかなか納得していただけなかったのですが、2日掛けて何とか了解を得て登録有形文化財の申請書を作成して頂き、ただし1軒だけは資料が不足で1年遅れで申請することとなりました。
やれやれこれで安心と3月31日、意気揚々と市役所の文化課に書類提出に行きました。ところが、市の担当者曰く「七尾市文化財審議委員会があり、これに諮らねばだめです。」おい!おい!何?そんなこと聞いていなかった!「いつ開かれるのですか?」「6月です。」6月?6月には県の方に書類は届いていなくてはならないのです。(登録有形文化財 鳥居醤油店)

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登録文化財の申請書を市に持って行って、市文化財審議委員会に諮らねばならないと云われたとき、わかったのです。実は、大きな勘違いをしていたのです。「みんな登録文化財申請に関心があり、喜んで協力してくれている」と、
ここは、とにかく文化課の担当者の方にお願いして、文化財審議委員会会長さんに説明に行ってもらうことにしました。
これも又、とてもラッキーでした。「文化財と云うのは、万葉遺跡とか七尾城を云うのであって、町家などは文化財に入らない。」と一発で撥ね除けられたのです。
(登録有形文化財 上野啓文堂)

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皆さんのお陰で市の文化課に書類を提出することができました。ほっとしてお茶を楽しんでいると、市川先生から、「まちづくりをすると云ってたが、何をするんですか?」ええ!そうか!「まちづくりをする」と啖呵を切っていたんだ!???雛祭りも終わったし!???・・・
これも又、全くラッキーでした。女将さん達が「花嫁のれん展」をしないかとやって来たのです。花嫁のれん???何か知らないがとにかく何でもいい「やろう!やろう!」と二つ返事でやることにしたのです。
(登録有形文化財 北島屋茶店)

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めでたく、平成16年11月8日一本杉通りの4軒が登録有形文化財として国に登録されました。「これまでに一地区にまとめて複数登録された例はなく、又それぞれ活用されていることが文化庁から高く評価を受けました。」と市川先生から笑顔で報告がありました。平成17年に1軒登録され都合5軒になりました。(登録有形文化財 勝本家)

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平成時代は、一本杉通りの のれんの街づくりの30年だった。
一本杉通り振興会で

平成5年「のれんの街」を掲げる。
平成7年~9年「アートの街」七尾国際アーチストキャンプ
平成10年~11年「アートとのれんの街」七尾なみなみねっと
平成12年~16年「アートとのれんの街」街並み景観向上計画
一本杉町会と振興会で
平成16年~30年「花嫁のれん展」開催 花嫁のれんで全国展開

「一本杉公園」


平成14年に一本杉通りに火災があり1軒全焼、商店街の中に雑草いっぱいの地面があるのはよくないと公園を作ろと奔走、全く運よく、石油貯蔵施設立地対策等交付金といしかわ緑のまち基金を使えるとの市からの助言がありそれを使うことになりました。場所は、一転二転して、防火用水の上に小さな一本杉遊園地があり、その隣接する家を取得することになりました。公園造りに一本杉通りの皆さんと会合を重ね一本杉通の「和」出来上がりました。この「和」は以後のまちづくりに大きな力を発揮することになりました。

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平成16年5月第1回花嫁のれん展が終わると6月から元気な街と視察の人たちが一本杉通りに見えるようになりました。通りを案内していて、何か違和感を感じていた時、町の人から「今日はなんや?」と問われ気づいたのです。情報が共有されてない。早速、回覧板で毎回視察の情報を流すことにしたのです。視察に歩いている人たちを見て、お客さんが「何?」と店の人に尋ねても、「一本杉通りには、視察の人が来るんだ!」と誇らしく答えられ、全てが自分の事となり、町が元気になって来ました。

「ごみゼロ宣言」をすると同時に、可燃ごみの計量記録することになりました。記録すると量が減るとの発想です。取り合えず町内の3割の方の協力があれば成功で、徐々に協力者が増えればそれでよしと考えながら初日、新聞を読んでいると「新聞社を呼んで!」と提案者の方が飛び込んできました。「9割以上の人が記録してくれたよ!」町の人たちがまちづくりに関心を持ち皆さんみんなが立ち上がってくれました。

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親から子へ受け継がれていく花嫁のれん・・・

人と人をつなぐ絆

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『おもてなし』のまち能登・一本杉通り

「花嫁のれん展」回顧録 ~北林 昌之~


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