頂いたお題№4『女子と友情』

女子と友情というお題をいただいたのでこれについて書いていきたいと思います。 


お題は随時募集しております。こちらから送れます。

自分なんかがこんなテーマを語ると何かしらの団体から猛反発を喰らう可能性が多分にあるので、今回こそ慎重に言葉を編んでいきたいと思う。
なので、何なのこの表現!何この思考!完全に男性を女性を馬鹿にしてるやろ!と目くじらを立てず、ニコニコ笑顔でよろしくおねがいします。
そしてさらに保険に加入さしていただくんですが、こちらのnoteは2024年現在の価値観で言います。ね!
 

今回は男性も女性も異性が好きなことを対象にお話に絞らしていただきたいと思います。
女子と友情というのは昔からの永遠のテーマではあるかと思っており、やれ友情はあるだの無いだの男はケダモノだの女性は都合がいいときだけ友達のフリするだのなんだのかんだの。
何故こんなに問題があるかを考えると、恐らく、男女の恋愛に対する考え方の違いと、恋愛という感情が色んな感情から引き起こされる操作不能の暴走マシンやからだと思う。

自分の思う結論から先に言おう。私は男女の友情は、ある。しかし前提として平和な世界で、両者の歩み寄りと強い意識による。となる。
女性がどういう目線で男性の友と愛を分け別けしているかは女性になったことないので分からないので、私のこれまでの経験と男性からの目線のみで話を進めるね。

 
男性にとって女性と友情を育むには色んな弊害がある。それはいろんな友情の段階層になっても友情を壊す瞬間が含まれているからで、好意あるなし関係なしに、男性は女性を基本的には性的に見てしまうというところが重要かと思う。つまり男は基本的に女性のことを
 
性的な感情で見てしまう。
性的に見てなくても見れる、見てしまう瞬間がある。
相手に敬意などの何かしらの理由がありその一線を越えない自制を効かせている。
その当女性と紳士淑女協定が結べている。
という項目があって基本的にはどれかに該当するということかと思う。
 
ちなみに性的に見ていないという項目がないのは、例え相手のことを性的に見てなくても、人類最後の男女になった時や、酔っ払って酔っ払って理性が働かずその上欲求が高まった時など、相手を性的に見ていなくても見れる見ちゃう見なければならない状況になった時になったら、女性を性的に見ませんという項目に該当することはないと自分自身が感じるからである。
私は世界が壊滅して歩けど歩けど人に会わず、漸く出会えた女性がいた場合、その人と子孫を残さないといけないと強く思うね。つまりそこに友情なんてことを言ってる猶予がない場合は。
 
 

平和な日本の現在の自分は、女性の芸人を異性と認識しないようにしている。それは女性芸人のことをリスペクトしてるわけでもなくて、こんなお笑いの世界に女性で入ってくるって変な人!という認識。卑下してるわけでもないが、わざわざこんな未知の世界に飛び込んでこんでも。という感情が近いか。
今でこそ全然カッコいい仕事の一つという社会での地位だが、自分がお笑いを始めた当時は女性芸人に風当たりの強い時代やったので、今でもそこは変わらず何もこんな仕事選ばんでもという感覚で女性芸人を見てしまっている。あと当時女性と思ってツッコミを日和ると面白が逃げていきそうな瞬間があったからとかもあるけど。まあこの感覚は時代とともに変わってきたが。
やから女性芸人のライブや楽屋などで一緒になっても『相手に敬意(私の場合は女性芸人への個人的偏見)などの何かしらの理由がありその一線を越えない自制を効かせている。』状態なので、自分が今後も女性芸人とは何も起きないという自負がある。
 

女性芸人で仲良しでと言えば相棒もヒコロも近い距離にいるが、これは上記の女性芸人に自制を効かせているという感覚より、戦友という意味の友人というか家族というかなんとも言えない関係性が強い気がする。こちらも異性として見る気はない、向こうももちろんない。それが完全に分かりあった状態で、その感情前提での、開けっぴろげな格好や垣根なしの精神状態で日常生活を共に数日か過ごしたことはあるし、お笑いライブで一緒に戦ったというのも勿論ある。だから苦楽を横にいて共に経験をして目標に向かって過ごしてきた人間をどう異性と見れるのか?とも思う。
もちろん彼女たちに魅力が無いわけじゃないが、私に気になる異性に見せるような顔を一瞬たりとも出してないというのが完全に分かる。当たり前のように彼女たちが私に恋愛の顔を見せようとなど一ミリも思ってないやろうし、こんな探して見つけ出さないと読めないような石の裏の虫みたいな弱小noteにこんなことを書かれてることもダルいと思われそうやけど。
そういえば昔3人で喋っていて、我々が50歳くらいになったときに全員結婚出来てなかったら、なんの感情もない結婚&養子縁組をして家族になって孤独死を免れようという契約が交わされていたね。この契約は我々の未来の暗さに安心という一筋の光を差し込んだ。
とにかく恋愛を超えたのか横に置いたのか当たり前のように恋愛範囲の相手として見てないのかわからないが、そういう日々を共に過ごしたから生まれた関係性ではある。と思う。
 

話は逸れたが、男性が女性と友情を感じるための男性特有の弊害が多分にあって、なかなか友愛にたどり着くのは難しい。というのは分かってもらえたと思う。
つまり性欲と恋情が近しい関係で、男女の行為と友情というのが交わり難いという価値観を、男女双方が持っている時点で、ある程度の人間的距離感で男女間の関係を結ばないと友情は成り立たないと思う。
 
 

もちろん行為をしたことによってすべてを理解し合って友人になる男女も少なからずいると思う。
私は元カノのあの別れてから会った時の絶妙な距離感のほうが、付き合っている前より付き合っている時よりどの時より友人というものに近い距離感な気もしなくもない。
お互いの隠したい変な部分を見せ合い認め合うという行為は、親友になるための一つのファクターのような気もする。むしろそんな恥ずかしいあられもない自分を相手が知らないで友人と言えるのか?という風にも思う。それが物理的な裸なのか精神的な裸なのか。
つまり男には動物として友人女性に性的な感情を抱く瞬間があって、それを隠して付き合っていく友情というより、お互いそれを知った上でそれを知り合ってその上で超えた友情のほうが友人として、人として認め合った心の共有度が高いのかなと。あくまで友情ベースね。性欲ベースじゃなく。
 
 

兎に角、女性と友人関係になれるかどうかは、お互いが男女の違いを理解し合えるかということが当たり前に重要で、その上でその相手がどういう人間なのかということを理解した上で関係を築かないと友人にはなれないと思う。同じ人間なのに男女というだけで別人種くらい違うから。
だからこんなテーマがここ数十年普遍的なテーマとして残ってるんやと思う。
 

締めようと思ったけど、今ふと気づいたが「女子と友情」ってテーマの出し方めっちゃ男性目線の文言な気もしてきた。まあ全然いいのだが。ちょっと気になった。
なぜなら男性なんてものは目的意識が強いから、女性を友人として一緒にいたいから選ぶなんてことをするのか?とも思う。目的意識が強いから。
特に自分は結構人間関係をわざわざ構築しようという部分が軽薄で、目的のために良好なお付き合いをしたいと思うか、女性に好意があるから恋愛関係になりたくて仲良くしたいと思うかのどちらかで、女性を友人にしたいというところを目的に持ったことがない。
 
 

勝手な想像だが、このテーマをくれた方は男性で、女性に対して下心があったのに相手にされず、友達にしか見えないと言われた過去の経験が傷ついた経験があり、そのせいで女性はすぐ友達なんて言葉使うという軽い偏見と小さなプライドがあるように見受けられる。気がする。
その場合の女性が発する友達とは、あなたを傷つけないようにするためにしたやんわりとした恋愛関係にはなりませんよという断りであり、それを受けてあなたがすることは、その女性の煮えきらない態度に傷ついてうつむいたり、変な小さいプライドを保つために女性に対して偏見を持ってイラつきこんな矮小なnoteにテーマを送り、私に同じ思考を求めてお前もどうせ生きづらいやろうと同調を求めて自己肯定感を保つのではなく、自分を磨くか、女性のそういう細かい部分をいち早く察知して動けるようになるか、諦めて次行くか、毎度毎度友達としか思えないという理由で断られているならアタック方法を変えるなり、友達としてずっと近くにおり彼女が傷ついたら支え励まし笑顔で朗らかにいつもおり、気づいたら彼女の人生の伴侶になってましたというまで粘りに粘って粘り勝ちする道を選ぶなんなりするべきであるかと思うね。大分お門違いやったらすまんごめん許して。
 

私の偏見が大いに外れていることを祈る。
 
 
 

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