ポジターノの夜

昼にナポリを出て、ガイドのマリオが運転する小さなベンツに揺られ辿り着いた時は、すでに日が暮れていた。旅行会社で働いている後輩が手配してくれたホテルへ向かう。

 空色や淡いオレンジ色のタイルで囲まれたホテルは南の町のやわらかい雰囲気を感じさせる。フロントで彫りの深い顔をした青年に尋ねる。「このあたりで、これから夕食を食べるところを教えてほしい。ここは、女性が夜ひとりで歩いても安全?」

 青年は笑いながら「どうしたんだい? ナポリで怖い目にでも遭ったのかい? このあたりはそんな心配はいらないよ」と答えた。

 それまで都会で身構えていた気持ちを、この町が解いてくれた。

 ホテルから数分の店に入ると、大きな口を開けて笑う女性が案内してくれた。品が良くて、それでいてカジュアルな印象で好感の持てる、気がいい女将さんといった感じの人だ。  

 この町で捕れた魚介類のサラダはナポリで食べた食材に比べて、とても生き生きしていた。人も食材も、オブラートに包まれることなく、粗野で優しくて心地よく感じられた。

「このワインがおすすめよ」と出してくれた赤ワインはフルーティで深みがあって、するするとボトルを飲み干していた。

 「チャオ!」

 店を出るころには、女将さんに負けないくらいの笑顔を返していたと思う。

 冬のオフシーズンで観光客はほとんどおらず、町の住人のような感覚で歩いた。白壁の民家に挟まれた小道は階段や曲がり角がたくさんあって、異次元へと続く道なのではないかと楽しくなる。海の近くの町なのに、潮の匂いがしない。これは映画の中のワンシーンなのかもしれない。迷路のような小道を歩き続ける。酔いも回って、いつしか頭の中は懐かしい感覚に満たされた。

 

 夢の中に出てきた彼女は紛れもなくわたしの家族として存在している。

 実家に帰省し、彼女にひとつひとつ、今は使われていない、上京するまで暮らしていた家屋の二階を案内している。現実のそれと夢の中のそれは似て非なるもので、例えば、和式の水洗トイレの壁は黄色みを帯びた年季の入ったタイルとなっていて、今は誰も使っていない様を表し、歳月の経ったことが分かった。南欧の雰囲気のタイルが手作り調で所々埋め込まれている。それから家屋の説明を始め、自分のかつて使っていた部屋へ彼女を連れていくと、自分も忘れかけていた小物やアイテムが出てくる。それらをひとつひとつどんな時にどんな気持ちで使っていたかを説明する。夢の中のわたしは、彼女と自分の過去を共有するのが当然であるかのように説明していたと思う。

 色あせてしまった家屋や記憶を、別の土地からわざわざわたしの生まれ育った場所に来てくれた彼女と、ひとつひとつ確認していく。その彼女は、わたしの中では一番近い存在だった。

 勉強机に向かうと、そこからは、かつてわたしが慣れ親しんでいた感覚が感じられた。勉強しながら、時には、ひとり物思いにふけりながら聴いていた音楽か何かを、彼女が興味深そうに前かがみになって覗きながら聞いてくれるのだ。夢の中だからジャケットとか譜面という目に見えるものではないのだが、感覚のようなものに興味を持ってくれている。

 そこから、その懐かしい感覚とともに、神宮の敷地の大きな木の前へとわたしたちを連れていった。両親からの伝言を伝えるためにどこかに向かっているようだった。そして、その土地から出てくる荘厳な雰囲気の中で一体感と安心感を感じていた。

 迷路を抜けた。眼の前を海風が通り過ぎる。夜の静かな海が包み込んでくれた。

「ありがとう」と言葉が口からこぼれた。


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