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謎解きの鍵

 忌引をもらい、五日ぶりに出勤した。職場は女性差別などについて人々が理解をしていけるような講座を行ったり、広報誌を発行したりしていて、活動団体が利用できる施設でもある。

 向かいの席では、相変わらず、自分のやりたい仕事しかやりたがらない女性が奇声を発したが、それには反応せずにノートパソコンを見つめていた。弁当を詰めて来る時間がなかったので、昼は何を食べようかと考えながら、自分らしくない自分の姿で仕事をする日々に戻る。

 職場の近くには和食の定食屋がなく、チェーンのうどん屋、安い中華料理屋、ファミレス、そして、やはりチェーンのカレー屋くらいしかない。他には、毎日のランチには少し贅沢なアジア料理店などが並ぶ、繁華街から少し離れたエリアにある町だ。


「関さん、広報誌のスケジュールどうなってます?」

と館長が尋ねると、関さんは、背中越しであることをよいことに苦虫を噛み潰した顔をする。その顔が視界に入り、半年前の出来事をまた考えてしまう。

 民間企業でマーケティングをしていた課長は、切れ者で自分の思い通りにならないと声を張り上げる。うまくかわす関さんは、課長が決めた業務担当は無視をして、簡単な事務や発送業務など雑務を率先して引き受け、講座の運営や企画などには一切耳を傾けない。

 ある日、課長の機嫌が悪く、「まだ返信してないのか!」と当たられた。朝来たメールに昼までに返信していなかっただけで怒鳴られた。理不尽なことが積み重なっていた矢先だった。それから、何か言葉を発しようとしても、全部否定され課長はこちらに何も話させてくれなかった。関さんは自分の担当ではないというふうな顔をしていた。

「逃げてますよね」と強い口調で言った。それから関さんは、こちらに関わってこなくなった。

 カレーを食べることにした。

 ビルの外に出て空を見上げると、飛行機雲の軌跡がうっすらと消えかかりながら、まっすぐに伸びている。

 田舎の中学はひと学年が二クラスしかない学校で、生徒は全員部活に入ることになっていた。中学に入ったらバスケ部に入りたい、そう決めていたが、入学式を終えて帰宅すると母親が、体力がないという理由でテニス部に入ることを強く勧めてきた。

 それから入部を決める日まで毎晩、母親は、自分がバレー部に入ってレギュラー選手になれなかったこと、一年生の時はボール拾いばかりで試合に出られなかったこと、背が低いからバレー部には向いていなかったこと、そしてテニス部に入っていれば大人になっても楽しめたと思うという内容を延々と繰り返した。その念仏に負けて、半ばやけになり、テニス部に入部した。


 テニスコートから体育館を見ていると、バッシュで床をキュッキュッとならす音や活気のある練習風景に、居ても立ってもいられない気持ちになった。

 同じクラスの五人でいつものように自転車で帰る途中、丘の上で自転車を止めて、

「バスケ部に入りたかったんだ」

と三歳児のように訴えた。唐突だった。他の四人は全員バスケ部に入部していた。友だちが引いていくのが分かった。親に部活を決められたのが嫌で嫌で仕方がなかったのだ。無論、それを聞いても友人はかける言葉が見つからない。

 三者面談までして、担任を困らせた。

「どうしても転部しなくちゃ駄目ですか? 学校ではこれまでそういったことは受付けしていませんので」

 バスケ部に入部できたのは夏前だった。一年生が同時に購入したバッシュは買えず、従兄弟のお下がりのバッシュを履いて練習に参加したが手遅れだった。空気感が違う。わがままな女が、わがままを押し通したとしか思われていないんだ、そう決めつけて意気消沈した。

 自分は、自己主張が強過ぎるのかもしれない。そんなことをぼんやりと思いながら豚肉のカレーを食べる。


 母親のことを思い出していると、実家の本棚にあった谷崎潤一郎の「卍」のことをふと思い出した。

 自営業らしく仕事の資料や百科事典、父親の趣味だった釣りの本しかないところにちょこんと並んでいた文学作品だ。小説を読む親ではなかったので、なぜ、この本がここにあるのか、子どもながら手にとって考えた。タイトルの持つ響きから、子どもが読んではいけないものが書かれている気がして開くことはしなかった。

 スマホで検索をして、初めて本の内容を知った。普段本を読まない母親がなぜ、あの本を自宅の本棚に置いたのか謎だった。奇しくも、今は多様性を推進するという業務に関わっている。書籍の担当も兼ねており、書評も書くようになった。子どもの頃、自分が文章を書くことに興味を持つとは思ってもみなかったが、小学生の頃、図書館で読めもしないのに難しい本や、辞書を開いては字を眺めていたことを思い出した。


 謎解きのように、今、実家にあった本のことを思い出すなんて何かが繋がっているのかもしれない、と心が踊った。



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