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comfort zone?

「コンフォート・ゾーン」という言葉がある。

 何か新しいことにチャレンジしたり、それによって新たな自分を見つけ成長するためには、文字通り自分の「コンフォート・ゾーン = 安心領域」を飛び出す必要があるよ。と、こんな使われ方をよくする。つまりコンフォート・ゾーンとは、これまでに自分が日々の生活を送る中で築き上げた、「安心感や心地よさを感じられる環境、行動、人間関係など」を指すのだろう。

学校の入学や卒業、就職や結婚など、いわゆるライフステージの節目を迎える時、人は嫌が応にもコンフォート・ゾーンから飛び出る経験をする。それでも何とか新しい環境や生活リズムに慣れていきながら、再びそこで自身のコンフォート・ゾーンをつくり出していく、という事になる。

またこの世には、人生の節目のような外部からのきっかけがなくとも、進んでコンフォート・ゾーンを飛び出して行く人も多くいる。ことビジネスの世界においては、「進んで自らのコンフォート・ゾーンを飛び出し、リスクを取って物事に挑戦し、成果を上げる人」が良しとされている風潮がある。入社面接で学生時代にがんばったこと、前職での経験などを聞かれる理由は、こんなところを確認したいからなのかもしれない。

「新しい環境に身を置く」、というその一点だけで振り返ると、僕もそれなりに少なくない数の環境に身を置き、またその都度、自らの判断でその環境を変えてきたとは思う。一度目の大学での、留学を含む国内外への旅行経験もある意味ではそうかもしれない。また会社を辞めて音楽活動に専念したこともそうかもしれないし、その後にまったく異なる職種を経験してみたり、友人の会社を手伝ったりしたこともそうかもしれない。そして今は、医学部にいる。そのどれもが自分で決めたことであって、そこでは毎回、当然だけどがらりと変わる生活環境が待っていた。

それらの新しい生活を選択するということは、僕にとって苦痛とはならなかった。少なくとも今振り返る限りでは、新たな環境に身を置く、ということは自分にとって大きな楽しみだった。もちろん不安に感じることはあったと思うけれど、それすらもセットで、「期待」という感情の一部となっていたように思う。

...けれど僕は、あることに気がついたかもしれない。これは正解なのかもまだわからず、ただこの文章を書き進めながら頭をぐるぐると動かす中で「おや」という考えに行き着き、どうやら無視することはできなさそうという直観がはたらいている。(こういう展開こそ、文章を書くことの醍醐味のひとつかもしれない)

それは、僕がそもそも「コンフォート・ゾーン」をつくり出すことが苦手なのかもしれないということだ。

推測でしか語れないけれど、きっと多くの人にとって、生活を進める中で自然とコンフォート・ゾーンは醸成されていくものなのかもしれない。そこでの人間関係や取り組むべき仕事、生活のサイクル...それらのものは、時間が経つとともに親密さを増し、きっと居心地が良く離れがたいものになっていくんだろう。

ただ、僕の場合はどうだろう。すこし違う気がする。

「コンフォート」あるいは「安心感」と呼ばれるような居心地の良さというものを、感じることが苦手な性分であるような気がする。それを望んでいないのか?という問いについてはもちろんノーで、僕はきっと安心感を求めている。それでも実際にそれらを得ることが叶わず(実感としてもつことが出来ず)、身を置いている生活領域を大きなコンフォート・ゾーンと捉えていない。だから次に新たな環境へと身を置くこと、新しく何かを始めることが相対的に苦にならないのではないか、と。むしろ、よもすれば「次こそは」なんて、コンフォート・ゾーンを築くことへの期待すら抱き次に進むことを是としているのかもしれないな、と。

さて、これをどう捉えるか。ひとまず思い浮かぶのは、「やがてそれらを得られるときはくるのか?」という命題であって、「それは外部環境によってもたらされるものなのか」それとも「自身の内にある何かに気づき、変えていくことでもたらされるのか」という手段の選択肢。

ひきつづき、頭を巡らせてみよう。

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