見出し画像

土俵に乗る

「同じ土俵に立つな」とか、「同じ土俵に上がるな」とか、
愚かしい(低い)レベルでやり合うのは賢明ではないとは、よく言われること。
諍いをけしかけられて、それに乗ってやり合ってしまえば相手と同じレベルだと。

とはいえ、
「土俵に乗る(立つ)」ほうがいい場合もある。
「乗らない」という選択もあれば、「乗ったほうがいい」場合もあるのだ。
だって、その土俵、自分のために用意された土俵だから。

大抵の場合、自分の前に現れる土俵は自分にとってめんどくさいもの。
そのめんどくささを、さらっと俯瞰してかわせるなら、
あるいは、その時点ではムカついたり、モヤついたとしても、
時間をもって自分の視点を高くできるなら、
その土俵は、同じ(レベルで立つ)土俵ではない。

自分にとっての、めんどくさい土俵は、
賢くなれないなら賢(かしこ)ぶらず、
せめて、めんどくさがらずに乗ってみるのも手なのだと思う。
とくに、何度も土俵が自分の前に現れるなら
一度、乗ってみるべき。
土俵が現れる正体を知るために。

この私に、めんどくさい土俵を用意するのは母だ。
めんどくさいから、とりあえず謝ったり、言われっぱなしにして我慢してしまうのが、これまでのやり方。
だって、めんどくさいから。

このめんどくさいの奥に何があるかというと、
「揉めるためのエネルギーを使いたくない」という相手に対する節約思考。
相手のために疲れたくない。
でも、言われっぱなしで我慢するのも相当に疲れる。
我慢はほぼ、まったく功を奏してこなかった。
で、「エネルギーを使いたくない、疲れたくない」の陰にあるのは何か?
本当のことを言う勇気ないから。
怖いから、お母さん。
もう、何十年も、ずっと繰り返してきているのは、何せ、怖いから。
(「怖い」とは、当人にしか分からない怖さであり、当人が創った幻想の怖さである。)

母との電話で、またもや始まる。
これまで、まるでおとなしく土俵に乗らなかったわけではない。
足をかけたり、ちょっと前へ進み出てみたり、不発な挑み方はしてきた。
でも、その日、そのときは、
腹を決めて、頑張って、土俵に乗ってしまうことにした。

そりゃあ、土俵に乗れば言い合いになる。
激しい。
そばに友達がいてもやる。
『(あなたは)友達なのだから、(私を)見ててね』
そんな気持ちで、遠慮なくやらせてもらった。

電話が終わると、
「どうして、そんなにお互いガッツン、ガッツン……」
呆れたように友達に言われたが、
「頑張りました!負けないで言いました!」
そう言ったら、お腹のあたりから「よくやった!」と言われたような感覚と、頭をよしよしされてるような感覚に、涙が出そうになった。

「負けないで言う」のは、相手に負けないでじゃない。
「めんどくさいから我慢してスルーしとけばいい」という、自分の向き合わない姿勢に負けないで頑張ること。

どうせ我慢してたって我慢が溜まれば、私は、ひとり切れする(一人で切れる)。
言われっぱなしにすれば、自分が被害者になってモヤモヤする。
モヤモヤしながら何を思うか?
「どうして、ああなんだろう」と悲しくなる。

最近になって気がついた。
「どうして、ああなんだろう」という思い方は相手を見下していないか?

「同じ土俵に乗らない」というのは、本当に賢明に乗らずに済むならそのほうがよいのだろう。
でも、自分の前に土俵を作られた段階で、同じ土俵(レベル)。
見下して悲しくなってる場合じゃない。
土俵に乗らない賢い振りをしたって、土俵を作られた余韻が残るなら、それはやっぱり自分のために用意された土俵だ。
土俵を作ってくれた相手を反面教師だなんて見下しても、何も変わりゃしない。
その土俵が、自分に気づけと促しているのは、相手の姿じゃなくて、自分の内にあることに他ならないのだ。
だって、自分のために、自分が現した(表した)土俵だもの。
要は、その土俵でどうするか?

土俵入り後の翌日、母は拗ねていた。
拗ねてたけど、いただきものの美味しいリンゴをお裾分けに行った。
さらに翌日は、父のことで大笑いし合った。

何だ、ぶつかっても平気じゃん。
大丈夫じゃん。
ドキドキを終えた安心感にどぎまぎしている土俵後。

≪🌐17*1106*P131106📒231106≫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?