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自分満ちる

幼稚園の頃だったと思う。
小学校に上がる前、母が私にカメラを向けて、「こっち(向いて)、いい顔して」とシャッターチャンスを狙っている時に、私は「にぃーっ」と顔を作りながら、ふと思った。
「私は、お母さんになれない」

思ったその時は、自分で思ったにもかかわらず、具体的な意味が自分には無かった。
ただ、ふと、そう思っただけ。
それが大人になるにつれ、徐々に意味を持つようになった。
どうしたって、親子であれ、「その人にはなれない」ということ。

その人がすべきことを代わってすることはできない。
その人を生きることはできない。
自分の課題は自分にしかできない。
至極当たり前のそういうこと。

自分を軸に生きることから外れては自分を生きられない。

どうしたって、どこまでも、
自分でしかなく、
どれほど不出来な自分であっても、自分を生きずに満ちることはなく。

どこまでも自分。
最後まで自分。
誰もかれも、自分を選んで生まれてきたことに間違いはなく、
だから間違いなく、「自分を生きる」は誰にとっても満ちること。
できるように、自分をもっとよく生きたい。
心深く思う秋分越えの日。

さて、子どもの頃に脈絡なくふと思った「その人にはなれない」話のようなことがあったか、友人に尋ねたら、その人は小学校低学年の頃に、「この世界は、みんなダメなところがあるんだ」と唐突に分かった瞬間があったと言う。
「何で分かった? 何かあったん? 何していて分かったの?」
さらに尋ねると、ただ本を読んでいただけで、その本がそういうことと関係していたわけでもなく、ただ分かったと言う。

すごいなと感心したのは、私は「ふと思った」なのに、友人は唐突ではあるけれど「分かった」と確かであるところ。
「ふと思った」と「分かった」の違いは、オトナになった今も違いのまま、私と友人の性質的な違いとしてあって、その違いは、それぞれ自分としてのものと受け入れるのがよいのだろう。
やはり、「どこまでも自分」と思う日。

《P050923》 🌎🌐地上綴り🌎🌐


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