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エヴァンゲリオンを観たーーギリシャ悲劇の展開と、『二項対立』的なモチーフ構造を思う


 現在公開中の、エヴァ劇場版を観てきた。

 もちろん、耳と尻尾は隠していったので悪しからず。ここで本筋に触れて如何、というよりは、観て思ったことや考えたこと、あるいは気になったところを考えて自分なりに消化しておきたくて筆を執った。それでも、本編のネタバレになる処があるかもしれないので、未鑑賞で情報をシャットダウンしておきたい人の目に触れるのは、ここまでで良い。

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 消化したい、と書いた。未消化で帰ってきた。何度足を運んでも、新しい発見があるし、腑に落ちない所は残る。当然やもしれない。8年待ったのだ。妖狐にとって十指に足りる年月がなんぼのものかと思われるかもしれないが、期待を抱いて過ごす時間は、相対的に長かった。
 目紛しくシーンの変わる映画を観ながら胸裡に次々と感情が掻き立てられていく。それはさながら日本のアニメーション技術の粋を集めて造られた本作のスクリーンが、心にもう一つあるかのようだった。それらは鮮烈でグロテスクで、何かしらの形で、視る者の精神を掻き立て奏で続ける。1秒の何分の1のスケールで展開される色彩の奔流は、ともすると思考を言語化する時間すら与えてくれない。実に暴力的で、これこそがアニメーション映画の意義だと感じた。好きだ。

 綺麗な絵だけを垂れ流すアニメ映画は苦手だ。世界の純粋で美化できる部分だけを恣意的に切り取っているというスタンスが苦手なのもある。フィクションなのだからそれくらい赦されるだろう、という意見はあって当然だと思うが、アニメーションを芸術の媒体、メディアとして捉えた時、自分の作品から世界の汚い部分を意図的に切り取って提示するという行為は些か詐欺的だとも感じるのだ。自分がどのように外界を認識しているか、それを表現する術としてあるメディアを選んでおきながら、自分の見たままではなく都合の良く改竄されたものを示すということは、まず自己欺瞞だし、厳密には甘えがあると思う。綺麗な世界が描きたいなら、絵筆の力でありのままを描いて尚且つ、他人にそれを綺麗だと思い込ませるのが力だと、理想論であり非実現的な究極の話と知りながらも、それを希求することを辞めては己が廃る、とあるべきが表現者なのではないか。綺麗のクライテリアをどこに求めるか、というのも別個のテーマだが、そこにも思う所がある。現実の風景を模して綺麗に綺麗に描いていった結果、現実の風景そのものの劣化になってしまったら、それには美術的価値を認められるかどうか、私の眼には少し手に余る。
 また私は、聊かサイト・スペシフィックな感傷屋であるので、映画やアニメーションに限らず、あらゆる媒体には、その媒体でしかなし得ない表現を追究するのが、芸術上の媒体的意義と感じているし、それゆえに、『代わりの効くのでは』と些少でも思ってしまうことが残念だと思う性質なのだ。これはあくまで私いち個狐のアンテナの話であり、敷衍して何かの貴賤を論じようとしているのではない。

 ともかくも、私はこれこそがアニメーション映画だ、と思ったというのは、そういうコンテクストである。本作が、あるいはエヴァンゲリヲンからエヴァンゲリオンになるに至るまでの連作全てが、他のメディアでは決して表現し得ないものを見せてくれる。それだけでも媒体的な価値がある。

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 もちろん、話題はそれだけに留まらない。モチーフや、作中で提示されたシーンを観て想起したことについて、考えを纏めていきたい。作品の受け取り方や解釈は、無論一定のコンセンサスを得て然るべき部分も少なからずあるわけだが、受け手の普段からの思考に依拠する振幅が認められている、或いは認められていて欲しいと思う。そして思考とは方法論であり技術である。詰まるところ日頃より蓄積された知識や見聞が、常より触れている学問や文化に醸成されたものと言ってもよいだろう。映画に限らず、同じ何かを目にした際に他人の感想や意見、解釈を聞いて面白いと思い、それを己と糧とできる喜びを感じられるという始発駅だ。私は他人のそこからどのような線路が敷かれ、どのような車両が走ってくるのかに興味があるから、取り敢えずは私の箱庭にそれを走らせてみようと思い立ったのだ。

 タイトルに『二項対立』というワードを入れたのは意図的で、対立関係、相似関係、照応関係、あらゆるものが二つ一組で展開されているのはキーワードだと思ったためである。

 まずはフレームワークについて考えたこと。
 碇ゲンドウが今作では自分の計画を全きものとするために『儀式』というタームを多用する。『必要な儀式だ』というように。今作を悲劇と類別してよいかどうかには一考の余地があると思うが、少なくとも前半の、言い換えれば前作より持ち込まれた主人公の視点から途中までの筋書きは悲劇的であった、これはよいだろう。そして「悲劇」と「儀式」という術語がふたつ並置された時、私には想起するものがあった。
 古代ギリシアに於ける演劇論のひとつのトピックに、ギリシア演劇の悲劇が祭祀や儀式に端を発している、という説がある。あまり掘り下げると襤褸が剥げるのでほどほどにしておくのだが、ジェーン・ハリソンなどがその旗手かと認識している。その主張の中に、祭りの儀式より発展したがゆえにギリシア悲劇には、競争、情念、使者、悲嘆、再認、復活の6つの儀式的構造を有している、というものがある。
 逐次的だが、『競争』というが原語はアゴン、これは須く『コンテスト』に近い意味を持っており、同名のボードゲームでこの単語を知っている方もいるかもしれない。競技や戦闘、といったニュアンスが含まれる。『情念』はパトスに当てたものだ。パトスという語はエヴァと切っても切り離せないもので、『新世紀エヴァンゲリオン』のOPとして一世を風靡した『残酷な天使のテーゼ』の歌詞に、

ほとばしる熱いパトスで 思い出を裏切るなら

 という一説があったことが思い起こされるが、本来的に『パトス』は理知的な精神を意味する『エートス』に対置される概念であり、情欲や瞋恚、悲嘆など苦痛や快楽を伴う精神のことを指示する。『悲嘆』、これは『トレノス』に当てたもので、哀惜の情に近しい語感がある。『再認』は無論『アナグノリシス』に当てたものだが、アナグノリシスはアリストテレスが『詩学』にて提唱した、『ペリぺテイア』と並置される概念だ。もう少し触れると、ミトスと呼ばれる伝説や物語においては、主人公が自身の血縁について隠された真相を知ることで物語が急激に転換していく型式が多いわけだが、ここで『知る』ことが『アナグノリシス』であり、筋書きの『転換』が『ペリぺテイア』であり、両者は不可分にして相互に依拠した概念である。更に言うと、アリストテレスの『詩学』はギリシア演劇の起源についての偉大にしてパターナリスティックな文献であり、ハリソンの主張の礎でもある。

 戦闘、パトス、そして使者(或いは『シ者』と書いてもよかろう)、トレノス、アナグノリシス、復活ーーこうしてみるとエヴァンゲリオンの展開にどことなくアナロジーを見出すことが出来やしないだろうか。何よりアナグノリシス、そしてペリぺテイアは『血縁』を重要な因子と見做している、というところまで含めてである。本作のクライマックスは過たず父子の対峙と対話であり、そこから展開されたのはアポカリプスからの復活であった。
 すでにここまで、枠組みについて私が思いを馳せた限りでも、陰に陽に二つで一組の概念の影響が散見される。

 親子と男女、これは著明な柱だ。
『父子』と敢えて書かなかったのは、ゲンドウとシンジのペアリングのみならず、ミサトとその息子のペアリングがストーリー上で意味深いピースとして嵌ってきたからである。ゲンドウはシンジの存在を、最愛の妻を失った自分への罰であると見做したし、自分の遺伝子のコピー、いわばオリジナルの下位互換であると認識していた節がある。対して、葛城ミサトとその息子の関係性は母子と割り切るには複雑だ。彼はサード・インパクトを止めるための人柱となった加持リョウジとの間に設けた子であり、ミサトは自分には母親として何もしてやれないから、と自分が親である事実を知らせずに見守っているのだ。ここでは親子関係の対応のみならず、ゲンドウとミサトにミラーリングの対応を認めることもできよう。対立した子と対話を果たせた父と、愛する子と対話をついぞ果たせなかった母という構図である。また、過去作から地続きに見てくれば、シンジと血縁者で肉体的に最も近い大人がゲンドウであり、非血縁者だが精神的に最も近くにいた大人がミサトであったことも瞭然だ。ゆえにゲンドウとミサトが睨み合うシーンにドラマが生まれる。また少々脱線だが、二人とも目元を隠していたわけだが黒く映るゲンドウと赤く映るミサトの対峙には、スタンダールの『赤と黒』を連想せずに居られなかった。当該作品のタイトルの由来だが、「赤」は軍人、「黒」は聖職者を意味している。これが例え単純で数奇な偶然であったとしても、私はこれだけで十分に楽しめる。
 線路が脱落したので少し手を入れて戻してみる。ミサトは息子に愛情を言葉で伝えられずに爆散したのだが、しかして観ている我々にはしっかりと救いが用意されていたのは心憎い演出だ。加持リョウジが地球の種を保存するプロジェクトの一環で回収していた「スイカ」が佳境で何度もスクリーンに映り込む。いかにも訳ありな伏線の張り方だが、第三村で農作業に従事する彼とミサトの息子が育てていたのは他ならぬ「スイカ」であった。

『男女』、これはもっと基礎科学的に『雌雄』としても差し支えがないかもしれない。ゲンドウとユイであり、葛城ミサトと加持リョウジであり、洞木ヒカリと鈴原トウジであり、アスカ・ラングレーと相田ケンスケであり、シンジとマリであり……。そうしたカップリングも勿論なのだが、ここでもうひとつ、ボードレールの唱えるコレスポンダンス、『万物照応』というファインダーを通して観てみたい。

 万物照応、それはマクロとミクロが符合する現象のことであり、究極の自然観、ひいては宇宙観である。瑣末な事物の堆積が階層的に高次元の構造を作る訳だが、ひとつの物事の成立には、あらゆるものの関係が不可避であり、いかな些少なものであっても宇宙を反映しているというものだ。
 男と女、或いは雄と雌にこのレンズを掛けて見えてくるのは、精子と卵子の対応であり、生殖で別々の意義を担うことだと思う。これは突飛なエロ狐の根拠なき妄想と言われるかもしれないが、少なくとも私は、ゲンドウとシンジが槍を突き合わせて戦うシーンで背景の世界の縮尺が目まぐるしく変わる演出は万物照応的な着想であると思ったし、配偶子への連想は別のシーンでも掻き立てられた。それも一つではなく、二つある。

 ひとつ目、それはエヴァンゲリオンイマジナリーに、ミサトとマリが『ヴィレの槍』を突き刺す場面に他ならない。そう、受精だ。厳密にいうと、卵に精子が進入する際には、先体反応というものが生じ、これによって精子の原形質膜と先体を包む膜とが癒合し、卵と精子の融合が実現されるのだが、この一連の現象を私は想起した。
 ふたつ目は、細密には幾つかの場面が、渚カヲルがシンジに言った、「君は相補的な世界を望むんだね」という台詞をトリガーに私の中で再認されたものである。エヴァの世界観には『A.Tフィールド』という概念がある。Absolute Terror Fieldの略称だが、元は使徒の保有能力として描かれ、カヲルによって、全ての生命体が無意識に使用している自分の存在を保つための力だと仄めかされていた。「他者を拒む心の壁」かと思う描写であったが、「相補的」そして「A」「T」、という文字列からは、私はDNAを構成する4つの塩基を想像せずに居られなかったのだ。4つの塩基とは、ピリミジン塩基であるシトシンとチミン、プリン塩基であるアデニンとグアニンのことだが、これらは頭文字を取ってC、T、A、Gと表記される。そして、これら4塩基の量比はAとTが、GとCがそれぞれ等しいという発見は発見者の名を冠してシャルガフの経験則と呼ばれた生命科学史上でも大きなものである。それは更に解明され、AとT、GとCが相補的に結合することでDNAの二重螺旋が作られることがわかっている。
 つまりは、A.Tフィールドとは相補性の効果、つまり別々の存在である2者が対峙したときに生じる効果であるのでは、と私は思ったのだ。なぜG.Cフィールドではないのか、というのは、AとTの間の相補的結合の方がGとCのものより弱いから、というのは、これは流石に私の邪推かもしれない。しかしながら、本作のみならずエヴァンゲリオンで再三にわたって二重螺旋をモチーフにしたと思しき演出が登場していることは周知であり、その大元には雌雄の配偶子の結合がある、というのを考えるのは、私にとってとても楽しい時間であった。ゲンドウとシンジが対話を果たし大団円へと至るためには、ゲンドウがシンジは自分の劣化コピーではなく、自分の遺伝子のみならず自分の最愛の人間の遺伝子を、つまりはユイを内包した存在であることに気づくことが必要であったことは、私の想像を逞しくさせるに十分であった。

 リアリティとイマジナリーの二項対立も肝要だが、さらりと触れておくに留めようと思うのは、私にはこれを「Re」、「Im」と表記するだけで話題を複素数平面の話へとペリぺテイアさせてしまうことができる血が流れているからだ。
「男の子ならシンジ、女の子ならレイ」。これに尽きる。女子に与えられたレイという名は、本来ならばゲンドウとユイの間の子が女子であったら、という可能性であり、実際には男児が誕生したことで潰えた虚軸だった。

 最後になるが、映画であればここはエンディング・テーマが流れている頃合いだと思うので、その感想を、と思った。宇多田ヒカルの倍音をとても効果的に使うことで、エヴァンゲリオンの世界観にこう活かしてくるのか、というのは唸らされるところであったし、歌詞がとても深くて好きだ。『ルーブル美術館』、は劇中で登場したパリの因縁を思わせるし、『モナリザ』はダ・ヴィンチの手になる名画の呼称としてだけでなく、描かれているのが『モナ』つまり夫人、誰かの配偶者であることを私に追想させた。また、『モナ・リザ』には「スポルヴェロ」という技術で下絵が施されているのだが、これはフレスコ画の技法で、この技法の流行の前には「シノピア」という技法が基礎にある。シノピア、とは簡単に言ってしまえば赤い顔料で下絵を描くことで、そもそもこの赤い顔料のことをシノピアというのだ。顔料ではないが、エヴァンゲリオンシリーズで、赤い色彩の氾濫が非常に印象深く、また繰り返し使われた演出であることすら、宇多田ヒカルは私に最初のワンフレーズあまりで思い起こさせてくれたのであった。

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 松風、の意味を持つ熟語に『松籟』というものがある。松に吹く風のことであり、その風の音であり、そこから転じて茶釜の沸く音を意味する美しい語だ。音も『将来』と同じと悪くない。私は趣味で茶を点てる狐であるし、不肖、松風いおりを名乗る者の日記に借用するに、とても良い気がしているので、これを『松籟日記』と呼ぼうと思った。その最初のページとして、こんなものを書いてみた次第である。思うに日記とは、自分のために書く反省と分析の作業でありながら、どこかで他者に見られることを気にして少し気取ってしまう『媒体』だ。私の日記がどのように続いていくのかは、ゆえに私にもまだ、わからない。

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