母ちゃんの体重は?
登校拒否発動
週半ば。
3年目にして、はじめて8時10分になっても、家を出ることができない。
小中高と、よく、登校拒否をした。学校生活も、行事も何もかも楽しめるタイプ。それなのに、登校拒否は、急にやって来る。
「今日は行くの、やめておく。」
「いーねー、ままとぐだぐだしようよ。」
そんな日は、よく家の近くのそば屋に行った。個室があって、周りを気にしながら、罪悪感を抱きながら。
「帆立と、えびの天ぷら、どっちも頼んじゃおうよ。」という母を見て、
「○○が嫌だった。」そういうことを、いつも、話したくなった。
それに対して、どんな言葉が返ってきたかは全く覚えていないけれど、母を独り占めできる最も幸福な時間だったように思う。
そして、何も聞かずに、何も言わずに。楽しい1日を話すと、「よかったねー。」と微笑む父。
無理に行かせず、聞かないでくれたことは、両親に、今も、感謝していることでもある。
そして、1日経てば、次の日は元気に学校に行けた。
前置きが長くなったけれど。
高知に来て、2年と少し。
勿論、行きたくない日もあったけれど、行ったら何とかなると、そんな日々だった。
社会人になって遅刻ギリギリまで
「休むか。休まないか。」そういうことで、うだうだ悩む自分には、かなり戸惑った。
そういうとき、誰か、「悪者」がいたり、大きな出来事があるように思われるかもしれないけれど、自分は、そういうことではなかった。
「ただ、休みたい。」
理由もないけれど、休みたい日が、ある。
結局、その日、やりたいことがあって、
なんとかむくむくと出現した登校拒否はごまかし。ごまかし。
笑って、教室に立った。
カオスな日々の中に
その日は、灼熱の暑さだった。文句を言う子どもたちと共に、畑に行く。
畑に行ったら、暑いし、お互いやる気もないしで
ぐだぐだおしゃべりが弾む。
「お前の母ちゃん、体重何キロ?」
「うーん、多分〇〇キロかな。」
「あー、じゃあ、○○が何こ分てこと?」
「うーん。そーだねぇ。」
ニヤニヤ、会話を盗み聞き。
「いおりん、俺の母ちゃん、何キロに見える??」
それは、最も答えづらい問題でしょうと。笑
種から育てた子達を、土に植える。
「根っこが、細い。根っこが大事。人間と一緒なのかもね。」深い。自分にしては、深すぎる。
そんな名言に、誰にも気づかず、水遊びが始まった。
教室で、ある子が遊んでいる。
「今、なんの時間なの〜?」と聞くと、
「あー、今、さぼりん村だから。」と返ってくる。その言葉に、なんの澱みも、戸惑いもなかった。凛としていた。
机の上に散乱するものを見ると、めちゃくちゃ我慢して、最終的につい口を出してしまう。
床には、脱ぎっぱなしのアウターが落ちている。
「も〜〜〜。」そんな、溜息をつくわたしの横で、
自分のものでもないのに、静かにせっせと、美しく畳む人あり。
校舎に差し込む光が、その子に重なったように見え、不意に込み上げる涙をぐっとこらえる。
カオスな日々の中に、
つい見逃してしまう
美しい瞬間。
大切にしたいことは、これなんだと、刻む。
「私、疲れているだわ!」
認めたくなかったこと。ただただ、弱さを抱きしめる。
無理やり沈められた川遊び。
子どもに背負って対岸まで連れてってもらった、川遊び。
カーッと、何かが吹っ切れる。
今日も、私は、子どもたちに、守られている。
未完の中に
去年、視察でお世話になった伊那小学校の文献に、こんなことが書かれている。
「未完の姿で完結している」
ああでなければならない
こうでなければならないと
いろいろに思いめぐらしながら子どもを見るとき
子どもは実に不完全なものであり
鍛えて一人前にしなければならないもののようである
いろいろとらわれを棄て
柔らかな心で子どもをよく見るとき
そのしぐさひとつひとつがじつにおもしろく
はじける生命のあかしとして目に映ってくる
「生きたい、生きたい」と言い
「伸びたい、伸びたい」と全身で言いながら
子どもは今そこに未完の姿で完結している
未完で良い。そのままで良い。
わたしも、あなたも。
共に手を取り合って、うだうだ。ぐるぐる。
そんな日々をただただ、愛したい。
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