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【色弱デザイナーが出来るまで】地方の新聞社、記者になる。

テレビで、日本一のカッ飛び男というふざけた名前のドラマが田原俊彦主演で放送されていた。
新聞記者のドラマ。
家族は、そのドラマを引き合いに出し、新聞記者になったと、冗談を言いながら喜んだ。

母は、私が書いた新聞記事を、いまだにとっているのも知っている。
きっと、タンスの奥に大事にしまってあるに決まっている。

新聞記者になれたのは、母親のおかげだった。
新聞に掲載されている求人を見て、母親が、応募してみたら?と切り抜きを持ってきた。

いつもであれば、干渉を極度に嫌う私は、うるさそうに母親を追い払うはずだったが、その時は、とにかく弱っていた。
曖昧に前職のイベント会社を辞めていたため、いや、辞めていたかも曖昧なまま。

給料なんかほとんど支払われていない状態で、未だに、弱っていた。
実家で腐っていた。
昼迄寝て、ふらふらと、何かをしなければと考え、ヒゲも剃らず、漂うように外出し、ベンチがあると、空を見上げながら目的も無く座り込んでいた。
あまり、普段行かない体育館の広場に、廃人のようにぼーっと座っていた。

偶然母の妹。叔母の加代子おばちゃんが、通りかかる。
昔、学生時代にはスケバンだったという噂もある。
気っぷのいい、ビッグママ的な風体をしている。

近寄って来て、明るく、「おう!しんじ!」と声をかけ、「とっとき!」と三千円程握らせてくれた。
惚けた眼で加代子おばちゃんを見つめる。
「ありがと」消え入りそうな声で呟く。

加代子おばちゃんは、何も言わずに、立ち去って行く。
ありがとうとは言ったが、感謝の気持など湧いて来ていない。
同情された。そして、その同情の金をもらってしまった…と情けない気持だけが残った。

なんとかしなきゃ…と。

履歴書を送った。
地方の新聞社。
新聞記者の仕事だった。

面接の時が来た。
まず、言われたのが、履歴書だけポンと送られて来てビックリした。という事。
履歴書を送ってくれと書いてあったので、それだけで良いのかと思っていたが、実は、お願いの手紙が必要だったと気づいたのは、社会人になってからだった。礼儀作法も何も知らなかった。

バブル期には、面接時に履歴書を持って行けば良い会社が多く、おそらく、その時代には大学名で、ある程度合否が決まっていたのかもしれない。持ち込まれた履歴書を見ながらいろいろとカタチだけ聞かれることが多かったので、先に履歴書を送った事などなかった。

面接時には、
高校の時は文芸部に入っていた事。
大学では経営学研究会で、論文を書いていた事。
そして、文芸部で作った文芸誌と、大学で徹夜して書いた論文を4~5冊持ち込んだ。

間違い探しと、漢字の読みのテストが筆記試験。

さほど難しいとは思わなかった。
そして、合格の通知をもらい、新聞記者になった。
警察と、消防署の担当。
柳川支局。

毎日、警察と消防署に出かけて行って、報告を聞く。
消防車の音が聞こえれば、スクーターで取材に行く。

事件が無い時には、いろいろな、記事が書けそうな所を捜してウロウロする。
比較的、文章を書くのは得意だったので、別段苦労は無かった。
入社して一週間程で、5段抜きの記事を書いた事もあった。

スクーターで、公的な施設へ行けば、記事は結構転がっていて、市民センターなどに行けば何かしら記事を拾える。
今の様にインターネットなどは、無く、ワープロが出始めた時代である。
足で稼ぐのがあたりまえの時代。

誰それが公演するなど、カンタンなものなら、すぐに書けた。
しかし、記事で取り上げやすい人がいて、結構取材は偏るらしい。
そして、年配の人は、嫉妬心が強いといったことが取材をしている過程でわかった。
新人の新聞記者は、取材をされない年配のおじさんから怒られる。

次は、私を取材しんしゃい!!
おんなじ記事ばっかり載せてもしょうがなかろうもん!!

また、上司から、飲み会に誘われた後で、お礼の挨拶をしなければ、2〜3時間、業務時間が押しても、平気で怒り続けることができる人間がいることも、そこで知った。

清廉な価値観を持ったはずの新聞記者が、知的障害者施設を訪問し、感想を吹聴する。
「気持悪かったばい!気持悪かとのウジャウジャおった!」
仲間内だけの会話である。
その新聞記者は、後に、でっち上げ記事で新聞社を首になったのだが…。

大人は、思ったよりも立派な人達ばかりではなかった。
素晴らしい人などいない。
そう思った。

私は、以前のイベント会社で、あまりにも疲れ果てていた。
人の毒にやられていた。
オレに礼儀を尽くせ。
オレにもっと注目しろ。
お前は、オレらの足を引っ張るだけだ。
何も出来ない奴は面倒くさいから、近くに寄るな。
お前に、社会人としての決まりとか教えてやる。おまえより遥かに出来るオレ様がな。

そんな見えない声が毎日聞こえて来た。

しばらくすると、私は、肺炎になった。
夏の暑い日に…。

そして、職場に絶望したというよりも、社会に絶望し、せっかく、手にした、新聞記者の仕事を手放した…。
退職願を、名刺と一緒に封筒に入れて、シャッターの閉まった新聞社のポストに押し込んで、そこでおしまいだった。

オレは、もう、社会で生きていけない…。
絶望感しかなかった…。

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