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【荒削り】発明家ってなんだろう:アート、サイエンス、ビジネスへ

発明家のRickyです。色んな世界を見てみた中で発明家ってなんだろうと考えうようになりました。その端緒をまとめられたらなと思います。

まず前提として発明家は「ある次元にないものをその次元に生み出す人」のことです。それはアイディアベースでも実体ベースでも共通することかと思います。新しいアイディアを自分の知をエネルギーに取り出す、この世にないデバイスを経験と最先端の技術を組み合わせて作り出す。この一点においては発明家は自由であり、何にも縛られません。むしろその縛られた既成概念を取り外す、ぶっ壊すくらいの気概で取り組むのが彼らでしょう。

そういった発明家の自由性に対し、彼らが生きられる場所というのはまた別にあるわけです。

発明家の自由性を思う存分発揮できるのはアート界でしょう。今までない価値を問う、これほど生きやすい世界はありません。一方で生きやすいこの世界でも社会と金銭においては決して楽な場所ではありません。生み出し続けられなければ死ぬ。作家の生命線は常に問われつづけられます。生きるためにお金を稼ぐには本業とは別に何かを始めなくてはならない。もしくはパトロンとして支援をし続けてくれる人を見つけなくてはならない(微小な確率で)。大成するアーティストは一握りな一方、迎合的であれば生きられる確率も増す。自我と社会善の間で苦しむことになる世界がここにあります。

次に生きやすい世界はサイエンス界でしょうか。サイエンスは常に人類の発展のためという題目があります。新しい価値観を提示するという点において、それは人類にとっての財産であるがゆえにその仕組みはガッチリと組まれています。生き方が自由度の高い形で決まっている一方、そのエネルギーは膨大です。最先端の研究は常に目を通す。自分の今の立ち位置を理解しながら、新しい研究を出し続ける。ここでは人類の財産になり得るかという点で縛られ続けます。研究者として生きていくのも楽ではありません。論文はもちろんですが、雇用形態もアンバランスです。任期付きの場合もあれば、ポストがある保証もない。生き抜く知恵がここでは求められます。

最後にビジネス界。生きる点においては十分です。そもそも生きるための資本が流入してくる仕組みになっているのですから、そこを問う必要はありません。形態もどこかに属するのか、自分で起こすかの違いはありつつも一貫する本質には変わりはないかと思います。ここで問題になるのが自由性。市場という束縛に載ったものしか受け付けられない世界がここにあります。ここに寛容な人は十分生きられるでしょう。現状ある市場を捉えつつ、新規性を取り入れた発明をすれば競合優位性ははっきりとわかります。そういうスタンスで生きれば、ビジネス界で生きるのは楽なものです。しかし一方でそうできない人たちがいる。それが発明家です。自由度の高い世界で生きることを望み、現状打破のプロダクトを創る人たち。彼らは現状を打破するために生きるゆえに現状の上に乗れないプライドがあります。

この世界でプライドを保って生きる方法は2つ。一つは一般の発明家の理想像と自分の発明像の共通項で生きること。毎日新しい何かを作ります、面白い発明品を作ります、そのようなコンテンツとして生きるやり方はこのインターネット世界でクリエイターとして生きる画期的なやり方です。もう一つは事業として興すこと。市場が求める世界観と自身の出したい世界観が共通するのならその世界で生きることができるでしょう。かなり難しいですが。

こうやってみると、生きるための道と発明家としての道でそれぞれ生きた方が良さそうと見えるかもしれません。しかしスケールのでかい発明になるほど、別々というのは難しくなります(世界を根底から覆す発明)。

総論として何が言いたいのかというと、発明家が生きるのは難しいということです。「社会(生存)と自由」のバランス、そしてプライド(尊厳)をどこまで保つか。それによって活動するフィールドは大きく異なるかと思います。アートでもビジネスでもない、発明家はどこで生きるのか思索を続けていこうと思います。

(Ricky)

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