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誰かのためという幻想

「誰かのため」とは何か?


ぼくは実は「〇〇のためにこういうことをします」ということにかなり懐疑的な考えをもっています。


懐疑を通り越して「普通に嫌い」といっていいほどです。


細かい事例は割愛しますが、イヌというものと関わる中で、愛護的な精神や行動がむしろ「みえない壁」になっているように見える場面に数多く遭遇してきました。


「困っているイヌのために」という誰かの想いが、まったくイヌのためになっていない。「誰かのために」は「誰かのため」ではないのではないか?そんな敵意のような警戒心を抱いているフシすらある。


さて、ここからはわりと壮大な妄想になってくるので暇な方は読み進めてください。忙しい方はまた今度ね。


ぼくの性質上、よくわからないもの、苦手なものを研究対象とするフシがあります。ふと気を抜くとぼくも使ってしまう「イヌのため」「飼い主様のため」っていうセリフ。


とっても使い勝手がいい。あっさりと相手に「なんか良いこと言ってそう」と思わせる力がある。言葉を尽くさなくてもてっとり早く相手に「いいひと」と思われたい人間から出るこの言葉。


ぼくと同様に「誰かのため」という言葉はよく聞くけれど、その実態はよくわからない。と感じているのではないでしょうか。


「誰かのため」はぼくたちの生まれるずっとずっと昔から存在している。例えば浄土真宗の「他力」であったり、キリスト教の「隣人愛」などの考え方。おそらくどんな宗教とも密接に関係している。


そういった過去の背景を理解していくことは重要なのだけれど、「今」の「誰かのため」という言葉は過去の文脈とは少し切り離されてとても都合の良い言葉になっていて、その輪郭がハッキリと見えることがない。


誰かのためという言葉はなんだか自分を少し犠牲にしているイメージがあるし、ぼくがうっかり「誰かのため」を使ってしまう場面ではかなり自分を犠牲にしていると感じている。

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