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演劇『脱獄計画(仮)』ミニシンポジウムに向けて|原案小説『脱獄計画』をめぐるテクスト

6/18(日)に開催される、演劇『脱獄計画(仮)』のミニシンポジウムに、山本浩貴と鈴木一平が登壇します。
詳細は以下ページやツイートを御覧ください。

私(山本浩貴)は、記録映像上映のあと、1時間少々、発表の時間をいただいているのですが、そこで話す内容のうちの一部を先んじて開く意味で、以下に文章を公開します。
これはもともと『脱獄計画(仮)』のレビューとして3月ごろに書き進められていたもので、原案小説→戯曲→上演の順に論が展開されていく予定でした。ただ、議論や分量が過剰になりすぎることもあり、いったんストップしていました。公開するのは、原案小説をめぐる部分です。
かなり重たい書き方をしているので、読むのが厄介かもしれませんが、小説『脱獄計画』を読んでいない方に参考になるところがあるかなとも思います。
ちなみにこのあとの議論の流れに関しては、イベントページ掲載の「発表概要」を御覧ください。



《合意の基礎》(に基づく《合意の基礎》)の実験(の失敗)

 アドルフォ・ビオイ=カサレスによる小説『脱獄計画』は一九四五年に刊行された。

 総督が言う。

 《われわれが合意の基礎になると考えるものに話を戻そう。大多数の人間にとって、つまり貧しい者や、病人や、囚人にとって、人生は惨めなものだ。われわれが合意できる点がもう一つある。われわれ全員が負っている義務とは、その人生をより良いものにしようと努めることだ〔…〕われわれはある集団に働きかける機会を、困難な機会を与えられている。いいかね、われわれは事実上、あらゆる管理を免れているんだ。集団が小さくて、〈あの無数の、甚だしい悲惨のなかにある者たち〉に紛れてしまっても、それはかまわない。たとえばの話、われわれの仕事は世界的な意義をもつものになるだろう。やるべきことは、われわれが監視している群れを救うこと、その運命から救うことなのだ》。

 《合意の基礎》、すなわち複数の肉体が協働する上で共有が求められる地平。それが総督の場合、《悲惨》な《運命》を背負った《群れ》を《救》わなければならないという強迫であり、あるいはこの世界において支配的な〈自然〉――この世界で生きるものらが共通の出自として共有し、それぞれの行為と思考を通じて計算=シミュレート=上演しつつ行為と思考そのものを支えさせている、法にして資源――が、そうした《悲惨》な《運命》そのものであるという認識であった。

 ここで《群れ》とは、総督の管理する群島に隔離された囚人らのみを指すのではない。同じ群島に一族内のトラブルでもって派遣されたアンリ・ヌヴェールも、かれの手紙を引用しつつ独自の日録を編む叔父のアントワーヌ・ブリサックも、さらにはその日録を注釈とともに整理し刊行した何者かも、そこに含む。総督による実験は、多くの科学的なそれと同じく、その成功を通じてこの世界そのものの新たな《合意の基礎》となる〈自然〉を生み出すことが望まれているからだ。
 既存の〈自然〉を組み換え、ひいてはそこに立つ生物全般の定義を書き直し、その先で既存の〈自然〉には書き込まれていなかった救済を、個々の生物に初めから許されていたものとして享受させるために、私らは協働しなければならない。《合意の基礎》を書き換えるために必要な《合意の基礎》の提示と確認。

 とはいえ総督は、私らとのあいだで《合意の基礎》を共有するまでもなく、ひとり実験の方法を確立し得ていたようではある。
 肉体への物理的な介入=手術を通じて、それらがもともと〈自然〉として依拠し上演していたところの知覚体系(視覚や聴覚、その棲み分けの法)を共感覚的に繋げ、入れ替えていくことにより、特定の色彩のレイアウト(=〈迷彩〉)を総督の用意した独自の〈自然〉として認識させる。結果、既存の〈自然〉から離脱し、《悲惨》な《運命》とは異なる別の〈自然〉の上演へ移行することが可能となる。またはそのような〈自然〉間の変換と移行が個人の妄想などに留まらず、生物全般において再現可能であることの証明は、協働における《合意の基礎》自体をも書き換えることになるだろう。
 こうした《外界の知覚》の変容の先には、総督曰く、《適切な心理学的訓練》を伴いながら果たされる《自我の知覚》の変容、《新たな個人の誕生》もある。既存の〈自然〉の備える時空間からの完全な自律、永久的に反復する《不死》なる状態の達成可能性。

 はたして総督は、そのようにして為し得る《不死》なる状態に向けた実験を、想定しつつも実際には《行わなかった》。かれが為したのは、自身も含めた四つの肉体の、物理的に隔絶したままの同期の実現、そしてその先での(別の《運命》に強いられた)死の上演だった。
 総督は実験に際し、囚人らのなかから三つの肉体を選んだ。かれらは手術を経た上で、それぞれ隣接する独房へばらばらに入れられた。壁を彩る〈迷彩〉に反応させられ、新たな〈自然〉に移行しつつ、(知覚の時空間スケールを変えるため)極度に減速させられた肉体の動きを、通常ならば知覚し得ぬだろう壁越しに緩く同期させていく。
 かれらは《触覚神経、視神経、聴覚神経の予期せぬ結合》の結果として《遠くからものに触れる能力》を得ていた。《壁を通してお互いの姿を見》、《相手に触れることができた》。実験を経たものらだけが築くそのネットワークのうちで、総督もまた病に侵された自らの肉体がシミュレートする既存の〈自然〉から離れ、自らの設計した別の〈自然〉へと移行する。
 ただ、総督だけは、時折既存の〈自然〉に遺された自らの肉体を通じて断片的な言葉を発し、書き留め、実験の成果を実験の外へと伝達しようともしていたようだ。まるで人間が、自らに外部からは観測不可能な自由意志や思考が残されていることを、表現を通じてなんとか他者へ伝えようとするかのように。

 総督は、ひとつの閉じた肉体において成立する〈変換〉ではなく、四つの肉体のばらばらなままの接続による〈変換〉を選んだ。もちろん四つの肉体の同時使用は、小さな協働でもって既存のものとは別の〈自然〉を作り、頑健なそれとしてお互いで支えつつそこに立つのに役立つはずだ。
 とはいえそこで当然予想されるのは、現実のそれとは別の〈自然〉を、数百万などではなくたった四つの肉体のみで作ることがもたらす偏り――個々の肉体が固有に抱える情動や因果把握から、共同の〈自然〉に向けて生じる、恣意的かつ偏りある逆流、支配――という事態である。現在、多くの人工知能が、出力結果から素材となった個々のデータへと遡れないよう、匿名化を施した膨大な量のデータを用い、その総体でもって〈方法〉を作り出しているのと比べれば、脆弱さは明らかだろう。
 総督も問題の所在に気づいてはいた。〈自然〉への《解釈には、各主体の人生が影響する》ことが予想されるため、《思いがけない困った解釈が生じるのを避ける目的で、わたしは各人に同じ変換を加え、同じ現実を与えることにしているので、経歴のあまり変わらない者を選びたかった》。
 もちろん完全に同一の経歴の者を選ぶのは不可能だが、とはいえ総督以外の三つの肉体は、直近数年間を同じ島で暮らし、同じ未来への希望のヴィジョン(都会ではなく《孤島という懐かしい夢》でのそれ)を総督による語りを通じて植え付けられるという、最低限の調整を施された上で、そのヴィジョンに見合う〈自然〉の構築と上演に向けて送り出された。
 それでも結果として起こったのは、四つの肉体のうちの一つである〈神父〉が抱えていた記憶=歴史の、肉体から〈自然〉への強すぎるフィードバック、強引な共有だった。〈神父〉はかつて遭難した島で見たのと同じ《怪物》を、新たな〈自然〉のなかに立つ他の三つの肉体に役柄として付与し、やはり遭難した島で自らの取った行動の再演として、かれらの肉体を遠隔殺害するに至る。総督はそこで新たな〈自然〉を作り演出する者からただの役者へと引きずり下ろされ、既存の〈自然〉でも新たな〈自然〉でもない、〈神父〉個人の抱えていた記憶=歴史という法のなかで、それへの奉仕として順当に自らの肉体の死を(かつて〈神父〉らに殺された者らの死の反復、役の再演として)遂行する。

 なぜ総督は実験を、自身も含めた四つの肉体のばらばらなままの接続を通じて行なったのか。
 《われわれが監視している群れ》たる眼前の囚人らを救うため、あるいはかれらの肉体なら比較的自由に実験に用いることができた(そのような権力的立場にいた)からだとまず言える。しかしそれだけか。『脱獄計画』の読者らからすれば、総督の実験の一連の顛末が、同時に『脱獄計画』という小説が自らを成り立たせるため選び取っているところの――ゆえに人がこの小説を読もうとする限り、自らの内でそれをシミュレートできなければならないところの――複数の人間による複数の事実認識が混在し錯綜する記述形式、他者からの強引な内面観測(の気配の拭い難さ)、そしてそれらを通じて描かれるところの叔父や恋敵の従兄弟によるヌヴェールの(パリから孤島への、あるいは別の肉体同士でありながら自由意志を操作し望んで死に向かわせるというかたちでの)遠隔殺害と、重ねて把握せずにはいられないその避け難さが気にかかる。
 両者の重ね合わせは、総督の実験の内実を「小説」というかたちで読者らの身のうちに再演させているという半ば充実した手触りとともに、実験のほとんど失敗めく顛末を、『脱獄計画』という小説が自らの形式、特に物語的な構造を劇的なかたちで充実させるために恣意的に選びとっただけのものなのではないかと疑わせもするだろう。複雑で焦点をなかなか結ばない形式に、必然性を与え、さらにはより楽しく盛り上がりに満ちた内容を組み込むことでなにもかもを適度に謎めいたまま終わらせるための――作者であるビオイ=カサレスによって? いや、ヌヴェールの死を期待し、かれの心情や知覚をどうどうとテクストにまとめ続けた叔父のブリサックによって?――仕組まれた失敗の上演として。

 私らは、《群れ》の救済がいったんは《合意の基礎》となる共通の〈自然〉からの離脱、個々に孤絶した別の〈自然〉の成立とそれへの移行をもたらしながら、結局は個々の〈自然〉が(人間が小説を読むことで肉体と思考に影響を受ける程度には曖昧で、逆に言えばその程度には致命的に強く)相互に影響を与え合い、いずれかを死体に、いずれかを生存する殺人者にするさまを確認させられた。
 断絶したまま接続する個々の〈自然〉は、個々の肉体に存ずる歴史=記憶を、既存の〈自然〉とは別の法として(既存の〈自然〉を経由していればあり得なかったほど)過度に恣意的に共有し、《悲惨》はそこに属するすべての生物が最終的にはそうさせられていたように、私の死でもってまたもや再演される。異なる〈自然〉などそもそもどこにもこの世界には存在していなかったかのように、あまりに単一かつ穏当な帰結として。
 はたして総督の実験の顛末は、小説を書き読む人間が経験し、あるいは設計し得る奇妙に複雑で現実をひたすら不確定化するばかりの形式に、それと対応する劇的で具体的な内容=事件を装填するため計画された、恣意的な(それゆえ予定調和な)失敗なのだろうか。あるいはそうではなく、そこでの死をめぐる能動と受動を、総督と囚人ら、そしてかれらの肉体が位置していた孤島に依存する個別具体な失敗の一例として受け取った上で、逆説的により良い救済の成功可能性、《それぞれの独房にいる彼らに自由を返してやる》ための《もっとも制約のない自由の庭》が存在し得るということの示唆あるいは証明として、『脱獄計画』という小説(のテクストがこのような特異な形式でもって書かれた事実)をむしろ使う余地が、私らの――既存の〈自然〉に未だ立ち、総督が後世に向けて残した実験概要書と、実験後の閉じた〈自然〉から漏れ出すように書き連ねられる言葉、そして無様に残された数個の死体のみを事後的に外から観測するだけに留まる私らの――手元に明晰に残されているのだと、信じられるだろうか。
 さらにはそこで総督が、単一の肉体ではなく四つの肉体を用いて実験した理由を、実験の内部に依拠する必然として語り直せるだろうか?

つづく

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