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KILIGS 意気揚々々

アトリエ春風舎での公演、気がついて慌てて観に行った。作演出の山内晶さんに興味があったこともある。
架空の市町村に生還した行方不明だった女と、村の現在過去の話。民俗学を絡めて重層する世界を行き来する話なのかと、予感される滑り出し。

劇の冒頭、口上で語られるように、村の暮らしというのは、現在の暮らしや残っているものをヒントに、毎日再構築される人の記憶と認識のなかにあり、こんな感じ、と大多数が認識しているイメージの集積がその地域のお国柄で、故郷は脳内にあるんだろうかね?
日本には記録好きが歴代たくさんいて、公式、非公式、記録が残っているから、なんとなくそれを巻き込むと信ぴょう性がある、疑いようもなくそういう事実、ああいう事実が存在したかのように。記録者の脳を通した現実の記録にすぎないけれど、常識的には残っているから存在したことになる。本当は確認する方法もない、答え合わせをすることはできないんだもの。落ち葉の上に積みあがる森の生態系のように。足場はグズグズだけど、そうじゃないと何も育たない、今現在の生活がもっとも深刻だ、でもそれも20世紀までの話で、令和では、むしろひとつ浮き上がった現実=人間同士を引き結ぶ網、に心を奪われる。過去現在サイバーの先にようやく未来。

この演劇上の村では、認識しうる現実が何層か同時にある。キーパーソンの生還した藤原原樹の脳内にあるディスプレイから覗ける過去の惨劇を示唆するサイバー空間と、地縛的に過去からつながっていて道祖神や精霊がうろうろする舞台の上の村と、SNS上に展開する現在の外資系高級別荘地に上書きされた村、もう一つ奥の院もあるみたい。素直な観客としては、一番前に出現するレイヤーを追って、他の層との関係性を考えながら、必死に筋をたどる、え?だから誰がなんだって?死んでるの?生きてるの?

いやいや、それだとウサギを見失う、もうノリで流されるのが正解で、要するにこれって総体としての永遠の故郷、実在しないけど認識できる「大鳶村」の案内だってだけなのかも。

考えるな、どんどん流されろ!

奇妙なダンスや変わった人たちの近すぎ熱すぎの関係や過剰な共感や大喧嘩、達者な俳優の力も大きく、破天荒なセリフがよく耳に入る、爆発的な感情表現で、理不尽な激世界に翻弄されて溜まった感情が気持ちよく開放される、盆踊りもモチーフになっていて、夏の夜祭に参加した興奮と、切なくけだるい祭りの終わりの空虚感を味わった。子ども時代、夏の夜は、人間じゃなくなったみたいに、暗闇で踊り狂ったじゃないか、盆踊り、熱心に踊ったなあと。ああいう熱狂は今、簡単には手に入らない。フェス、でもいいけど、日常のレベルとは違う次元の感情を味わうこと、ストーリーの整合性とか、どう落とすか、ということより祝祭性を第一義に考える、常軌を逸した珍妙なデザインの仮面をかぶって、与えられた曲をオドリキル、タケり狂い、悲しくもあるのが、日本の演劇の真骨頂なんだよなあ、と舞台を駆け回り大声をあげる俳優の姿をみていて、能を見ているような気持ちになってしまった。

月よ我を清めよ

「鵺」のような話は、サビれたお堂に僧侶が立ち寄るたびに、とりついた鵺(頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇 のキメラ)が船人に化けて現れ、哀れな身の上を語り、僧侶の回向を得ると、正体を現し、恨みつらみを訴える。チャンスとしてこれが上演されるたびに、鵺は舞台上に現れて、供養される。能役者は本物の鵺であるわけはないけれど、暗闇に放り込まれた自分を山の端にかかる月のように照らし、清めて欲しいという。すると、現実に舞台を見る人の脳内のモンスターも召喚され、舞台上の鵺に姿を重ねて供養されるんだろう。万人のどこか通底する心の中の何かを、演劇は確実に燃やし、浄化する、うまくやれば。

キリグスの芝居を見ていると、共感できずらい、ある意味支離滅裂な物語(失礼!)なのに、ありもしない山深い自分の故郷の、存在しない悲劇や怨念や、不幸な先祖が、まとまって供養されているような、祝祭的な気持ちになってしまうのは、どうしてだろう。