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猫がいる家

その家にはテレビがなかったが、猫がいた。
私がいつその家に連れてこられたのか、どうして連れの大人がいなくなり、そこにいなくてはならなかったのか、全く思い出せない。「8時だよ全員集合!」が見られないとわかったから、土曜日だったはずだ。まだ外が明るいのにもう寝る時間だといわれた。夕飯は出なかった。パジャマがないかときいたら、その家の老婆に、椅子にかかっていたチクチクするセーターと、備品と書かれたゴワゴワの埃臭い毛布を渡された。寝る場所を聞いたら、黙って床を指さし、電気を消して行ってしまった。そこは玄関から続いている石のタイルが敷かれたスペースで、足にひんやりと冷たかった。

私は猫の動向が気になってしょうがなかった。今どこにいるんだろう、部屋に入ってきたらどうしよう。動物が怖いので、猫が近寄ってくるかもしれない可能性におびえ、壁を背にして座り込んでいた。高いところ、例えば本棚の上にでも登っても、犬ならともかく、猫はあがってくるかもしれない。密室でネコ科の動物から逃げることはできない。彼女は女主人にとって、私よりもよっぽど上等な存在で、自由があった。多分夕食も。この家に風呂場はあるだろうか、それともトイレか押し入れなら、ドアを閉めて閉じこもれるかもしれない。階段下に物置があるようだから、あそこに入り込む手もあるかもしれない。隠れたかった、そうでないなら消えてしまいたかった。

恐ろしいのは女主人たる老婆だった。私が彼女にとってどういう関係の子どもなのか、全くわからないが、歓迎されていないことだけは、よく伝わってくる。いつか誰かが迎えにきてくれるんだろうか、それともこの先ずっとこの家で、老婆と生活することになるんだろうか、毎晩石の床で猫におびえながら丸まって眠ることになるんだろうか。

いつのまにか眠ってしまったらしく、揺すぶられて目が覚めると、まだ夜だった。老婆は迷惑そうに、私からセーターを剥ぎ取り、下着の上にじかにコートを着せた。
「迎えがきたよ、おきな」
玄関ドアを見ると、ずんぐりした大きな影が立っている、外にグレーのセダンが止まっているのが見える。
「夜ふけに子どもを迎えにくるなんて、人の迷惑も考えず、非常識だよ。一晩くらいよその家に泊まれないような子どもなんて、弱いね、ろくなものにならない。この子はきっとダメになるよ、将来が知れているよ」
迎えは私が嫌いなおじさんだった。黙るか怒鳴るかしかしないこのおじさんの車で違うどこかに運ばれるんだとわかった。どこへいくかわからない。私は誰なんだろう、誰の子どもで、これからどうやって生きていくんだろう。
おじさんは何も言わず、老婆に会釈をして、家を出た。

その夜は新月だった、ドアの隙間の漆黒に金色の瞳孔がきらめいた。
おじさんのセダンのセルモーターがキュルキュル軋み、エンジンがうなりをあげる。猫の家がある路地をぬけて、通りに滑り出した車は、ネオンが春の星座のように滲む国道を西に向かっていく、東名の入り口で斜めに高速に上がっていく軌道のそのまま、銀河に飛んでいけばいいのにと思った。