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編集者なのに、上京物語が書けなくて。

お久しぶりです、いぬいです。

(もしくは「初めまして」なのに、目を留めてくれてありがとうございます。)  

実は最近、大阪の会社を辞め、上京しました。  


大阪では、雑誌の編集者になりたくて出版社に転がり込み、いっときは月刊誌の編集部員として働けました。ここ数年はとても楽しい毎日でした。

 いまは、銭湯と餃子屋さんの多い「梅屋敷」という街に住みながら編集者・ライターとして活動しています。  


かなり大きな環境の変化なので「近況を知ってもらうための日記」みたいなのを書こう!  ……とは考えていたんですが、自分の『上京した理由』について、自分でもうまく考えがまとまらなかったんです。  


もともと、東京への憧れは持っていなかったから。  

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住んでいた大阪には大好きな酒場が山のようにあったし、飲み歩くのも楽しかった。地元・宝塚には、自分たちで遊びを発明できるかっこいい大人がたくさん住んでいることを知っていた。  


「六本木を車で流すんだ〜音楽とかかけながら」みたいな欲も全くなかった。
(↑バナナマンの設楽さんが何かの番組で言っていたエピソード。これをすると「おれ田舎もんなのにへんだな、東京の人みたいだな……と思う」のだそう。イメージの偏りはあるけど、こういう「アーバン」には憧れなかった)  


でも、いい加減に自分の姿勢というか気持ちをまとめないと「何となく」のまま何年も過ぎてしまう気がして。言葉にまとめてみます。


自分にとって大事だったのは、東京にくることじゃなくて、『編集者でいる』ことでした。そして、この人たちは自分の理想とする「編集者」だ、と思う人たちが見つかったから、東京に来るきっかけができました。


いつもインタビューしてばかりで、自分の話をする機会は滅多にない。上京のタイミングで、自分のことをまとめておきます。


まず大阪で"見習い"になった

拾ってくれた大阪の出版社で作っていたのは、あらゆる飲食店やカルチャースポットの情報が載った「街の情報誌」でした。

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そこでつくられるものは「お店の場所とスペック、綺麗な写真をぽんと載せてハイできあがり」なんてものじゃ無かった。  

やろうとしているのは、「街が今、どうなっているのか」を伝えること。  

町の豆腐屋さんが、こどもたちの見守り役になっていること。
ある1つの立ち飲み屋が、街の空気を変えたこと。
仕事を終えた酒場の店主たちは、朝まで開いているバーでよなよな集まり、街のための作戦会議をしていること……


そういう「街に漂う気分」のようなものを、撮って書いて、誌面で伝える。  

読者にとってそれは関西を楽しむための手引書であり、一部の人にとっては最高のノンフィクションだったと思う。  

MOOKと雑誌をあわせて、そんな雑誌作りに2年と数ヶ月関わりました。力不足で任せてもらえたページは多くなかったけれど、先輩たちの仕事を間近で見ることで、編集のことを考える土台をもらった。そして、「なぜ自分が編集者をしたいのか」も、考えることができました。


「編集者」のモチベーション

まだたった数年間の編集者生活ではあるけれど、自分なりに「編集」について思うところはある。だって、雑誌を好きになったのは高校生の時でした。憧れた年数を数えれば、もう10年になります。

▲最初に憧れた雑誌。

そんなに長いこと、浮き沈みはあれど漠然と「編集者」を目指していられたのはなんでだろう。そのモチベーションはどこにあるのか。

編集者になりたかった数年間と、名乗っていた数年間で、「なぜ編集者をやりたいのか」という問いに、自分なりの言葉が見つかりました。


自分が編集者でいたい理由は、

「他人の生活を残したい」から。


例えば遠い山あいの土地では、冬の寒さと飢えに抗うためにたくさんの発酵食品が生まれた。冬の間は新しい野菜も取れないから、夏から冬にかけて漬け込んだ野菜が、冬を越しても食べられる保存食になる。


例えば街の酒場の2周年パーティー。ごった返す客の肩が電気のスイッチを押し、店内が真っ暗に。急な暗転にその場が盛り下がるかと思えば、暗い店内で誰からともなく「ハッピーバースデイ」の歌声が聞こえて来た。「誕生日のサプライズのためなら、居酒屋は急に電気を消す」というあるあるをイジるかのように、酔っ払った常連たちは「ディア〇〇〜」に店の名前を入れて歌い、なし崩し的に拍手喝采が起きる……


どちらも、自分自身ではない「他人の生活の記録」です。

それは強い説得力を持って立ち上がるフィクションのようでもあり、少しの勇気と旅費を出せば、自分の体でそこに関わっていけるようなものでもある。

そういう「他人の生活の記録」を、1つのテーマや同時代性に沿って誌面に載せているのが、雑誌であり編集者たちだった。


遠い他人の生活や、そこに記録された言葉は読み物としてめちゃくちゃ面白い。だって、自分の人生では経験できないような時間だから。

でももしかしたら、その誌面から人生の予習ができたり、何か悩んだ時の踏ん切りをつけるきっかけの言葉が手に入ったりするかもしれない。


自分の作ったページや、文章や、記録の一かたまりが、そうなるかもしれない。


「他人の生活の記録は、面白くて(たま〜に)役に立つ。だから自分もそれを作れる人になろう」という気持ちの一心で、いまの自分は編集者をしています。


ローカルを見渡す編集部に憧れて


そうやってあれこれ考えてはいても、大阪の雑誌編集部では上手く行かなかった。

今思えば自分の頑固さや要領の悪さ、いくらでも「あの時ああしてれば……」が思いつくけれど、その時は考えもつかなかった。悔しいけど僕は引き続き頑張ります。


街の酒場は好きだったのにな、などと考えて悶々としている時に、僕は新しい編集部に出会いました。

それは地方にまつわるWEBメディア「ジモコロ」の編集部であり、同時にまた別の名前を持つチーム。

「Huuuu」という編集ギルドの名前をやんわりと耳にはしていたけれど、実際に酒場でそのメンバーと出会って、話をして、少しずつ本人たちに会ううちに、その活動の面白さを知っていった。


彼らは「ローカルを軸にした編集チーム」。

Huuuuはローカル、インターネット、カルチャーに強い会社です。

ライター・編集者を中心に、全国のクリエイター、生産者、職人、地方行政と関係を築いています。

わかりやすい言葉や価値観に依存せず「わからない=好奇心」を大切に、コンテンツ制作から場づくりまで、総合的な編集力を武器に全国47都道府県を行脚中。

彼らのやっていることは、地方にある人々の生活から価値を見出し、WEBや雑誌や様々な形に書き残すことだった。それはどこか民話を残すような、資料には残りづらい事実を記録すること。

地方に行き、その土地で暮らす人たちの話を聞き、時には酒とともにその地に身を沈めることもある。

それも1回訪れてハイ終わり、ではなく。関係性ができた土地の人々に会いに、何度も同じ場所を訪れたりする。

そこには「インタビュアー/インタビューイー」の関係性ではなく、それ以上に数十年生きてきた個人として、自分と全く違う人生を生きてきた人に遭遇しに行くような、体重の乗った取材があった。


自分も、そんな取材と編集ができるようになりたい。

浜辺から遠浅の海を眺めるようなものだけじゃなく、取材を通して一人の人間として、人と関われるようになりたい。


気持ちの波に乗っかれた時、人のフットワークは恐ろしく軽くなる。


僕はHuuuuの人々に「そっちに行きますから!」と伝え、半ば押し掛け女房(押し掛け奉公?)的に東京へやってきた。

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優しい彼らは僕を受け入れ、たくさんのチャンスを与えてくれている。

本当に感謝しているし、これからの仕事で恩を返すつもりでいる。


あまりに感情で書き進めてしまっていて、後から読み返すと恥ずかしいだろうか。


でも、一寸先が見えない今の状況の中、できる限りの言語化をしておきたくなった。浮ついているような自分の姿勢でも、言い切れることを言い切っておこうと思って。

上京してずっと、Huuuuの人たちにお世話になっている。

もっと良い仕事をする編集者になって、恩を返します。

今みたいなおんぶに抱っこじゃなく、ちゃんと並んで仕事ができるように。


雑誌作りに憧れて、編集者に憧れて、憧れの編集者たちが見つかって、いま東京まできました。

会社を辞めて、肩書だけは一丁前に「フリーランス」になった今も、ぼくは「編集者」と名乗って仕事をしています。

これから自分も、いろんな地方を渡り歩きながら、「他人の生活」が匂いとともに立ち上がるような読み物を作ります。


わかりやすい上京物語にはできなかったけれど、いちおう自分なりの選手宣誓のような、前置きの長い意気込みのようなものです。東京に引っ越してきて2ヶ月、やっとこの話が書けてよかった……

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