きっとそれも、愚かで愛しい肉塊だった

 日常に侵食してきている、と思う。それはおぞましく耐え切れずこっぱずかしくてひどく愚かで、きっとそれでも愛しい肉塊だ。まだまだ紡ぐ言葉が幼稚なので「大好き」だの「愛しい」だの、通り一遍のアイラビューなのだが。

 本屋に、昔見ていた(今もちょこちょこ見るが)実況者のエッセイ本があった。CDコーナーに歌い手やVTubeのアルバムが並んでいた。駅前広告に平気な顔をして、アニメのキャラクターのような顔をして、彼ら彼女らがいた。

 なんだか。なんだかなあ。文化の違いだ。時代が急速に個性を無くしていると思ってしまった。面白いけれど、面白いけれどそうではなくて。PCに向かって一喜一憂し涙を流し発狂する子供部屋が、なんだか。子供部屋ではなくなっている気がした。
 いいことか悪いことかわからないけれど。怒られそうな話題だがジェンダーレスもそうだ。手を取り合って仲良し教育がここまで発展するとは思わなかった。

 良い意味でも悪い意味でも、境界線があやふやになっている。多様性がどうだかなんだか、わからないものをわからせるよりわからないを極めればいいのになと思ってしまう。それはきっとわたしが恵まれてる人間だからそう思うのだろう。そう思うのの何がいけないのだろうか。
 店をキョロキョロ見回してグッズを探す恥ずかしさも、レジでそれを清算される公開処刑のような感情も、レシートのちょっとした優越感も。小さなものだったはずだ。初めて独りで店に入って、握りしめていたせいで生ぬるい小銭を突き出して。その感覚が、その感情が、その心臓が、どんどん鈍化していくのだ。

 なんだかなあ。答えはないから考えようが答えは出ない。けれど面白くないと思う。あの羞恥心ですら楽しみなのに。

 心臓ごと愛おしいのでどうしようもできない。わたしは彼ら彼女らがだいすきで、その感情に噓偽りなくて。それを否定とまではいかないものの好奇で奇怪な目で見られていたから、だんだんじわじわ世界に肯定されているのがどうしようもなくどうしようもないのだ。
 日々に侵食してきている。エッセイ本は買わなかった。CDもブルーレイもボイスドラマも買うだけ買って聞いてない、グッズは基本コップやクッションなど実用性のあるものしか買わず。

 愛しい肉塊の侵食に怯えながら、愚かにもそれを手放しで喜ばしいと思えないのだ。