越境

越境12 行彦 その4

※哉村氏とのリレー小説です。前回はこちら。第一回はこちら

 残雪の顔からさっと血の気が引いたようだった。長い間陽に当たっていないのだろう白くて肌理の細やかな頬、何かを言おうとして開かれて、一瞬の迷いのうちに結ばれた唇。ここの人間はみなどこか人形のような雰囲気があると行彦は思った。声をかけるべきか、逡巡しているとベストの裾をぎゅっと掴むものがいた。残雪を呼んだという小さな子供だ。目に涙がいっぱい溜まっているので、瞳の形がゆがんで見えそうなくらい、きらきら、潤んでいる。白目まで青みがかっていて、夏のプールみたいな目。

 「行かないで、怖い。ぼくは怖い」

 また発声を伴わない声がする。ビー玉を木の床の上で転がした時みたいなきれいな音だった。

 「怖い、怖い」

 ちいさな子供だった。身長は行彦の胸の辺りまでしかない。よく見ていなかったけれど、くるくると巻いた金髪はかたちのよい耳の上にかけられていて、頬の輪郭も可憐な丸さで、水気の多い青い瞳を長いまつげが取り巻いている。昔の少女マンガみたいだな、と思った。

「オーケー、落ち着いて」

 こんなとき英語でどう言うべきか解らず、屈んで目線を合わせる。頭を撫でてやると子供はすこしは人心地がついたようだった。とりあえず原因からどうにかしようと、行彦はあらためて木のほうに向き直った。さっきまでの話だと残雪にはこれが人間に見えていて、他の人間にはなにか化け物のように感じられるらしかったが、彼にはまだそれは木だった。もうすこし力がかかれば折れるのではないかというくらいたわんでいる。その上にのしかかるようにした少年……。名前も知らない人間だった。年頃は行彦よりすこし上くらいか。浅黒い肌の、彫りの深い顔立ちをしている。頭に血が上っているのだろう、この間教室で見たときよりも深い色の頬をして眼が血走っている。歯を食いしばっているので、八重歯が目立つ。

 八重歯と言うにはなにか、鋭い、と思って、その瞬間、めり、と、音がした。

 膨張。血の匂い。と、肉が焦げるような。彼の身体は膨らんで、肋骨が飛び出た。髪はゾワゾワと伸び、範囲を広げていく。内圧に負けるように服が引っ張られる。ベストが音を立てて裂けた。動物? と思った瞬間身体がはじけた。

 形のよい頭が吹き飛んで、スプリンクラーより噴水より勢いよく血が、鞭のようにしなる頚椎、何なのか解らない黒い液が行彦の頬にべしゃりとかかった。傍にいた小さな男の子の悲鳴で我に帰る。逃げなきゃ。逃げなきゃ!!

 その瞬間にも骨からこそげ落ちた肉は膨張している。形のよかった細い両足が腰から下でちぎれてぐるんと裏返り、骨が濁った音を立てながら薄く広がっていく。溢れた内臓が惨めな短い足になって蠢く。上半身は今なお膨張している。

 行彦は必死に子供の手を引いて廊下に飛び出した。もはや人間とも言えなくなったそれは暴れながら追いかけてくる。思い通りに動くこともできないのだろう。白い廊下に赤と、黒と、黄色と透明の混ざった液がしぶきのように飛び散る。恐ろしい彷徨を聞きながらとりあえず、逃げる、走る、逃げる。どこまでも。階段だ、駆け下りる。体温が上がる、酸素が足りない! 子供の細い手首を掴んで、急いで! ほとんど引きずられるようにして何とかついてきている。ぞわぞわとした尾のような指のようなものが頬に触れた、捕まる? 頭を振って道を曲がる。さらに繋がる廊下は真っ直ぐ。後ろで何かが転げまわる音、引きずる音、湿った音、石臼を挽くような音を聞きながら走った、走る。階段をまた降りる、まだ音がする。

 どれだけ走っただろうか。気がつくと音は聞こえなくなっていた。あたりを見渡してみるが、見慣れたドアが向こうのほうまで続いているだけだ。子供はぐったりと座り込んで荒い息をしている。一応五体満足だ。とりあえず顔を洗いたい、と行彦は思った。それと、水が一杯欲しい。

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リレー小説です。次回

下記相手方からのコメントです。

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