noteとひとひらの雪と

プロフィールに私は「HSP」で夫は「非HSP」、息子は「HSC」と一応書いています。

「一応」となるのは、極めて大雑把な住所のように感じているから。

例えるなら、日本に居る私の位置を「アジア大陸に居ます」と表現しているくらいざっくりと伝えているような感覚。

アジア大陸とカテゴライズされた中に居るのはたしかだけど、もっと細分化が可能で突き詰めていくと最後は番地までいって、さらに私は動いたりするから、その移動距離に応じて細かな位置が時々で変わるといった具合です。

言い換えると「HSP」とか「HSC」とか、たしかにそうだと思うから書いてるけど、最終的にはごく当たり前の、それぞれ違うオリジナルの人間で唯一無二の存在、そのうえバイオリズムとか状況とかその時々で微妙に変化したりします、といった感じでしょうか。

私にとって言葉やカテゴライズは理解の助けになるし表現するうえでも便利なモノだけれど、概念に捉われて頭でっかちになると振り回されてしまうから、心の中で適度な距離感を置いて利用したいツールです。

なので、noteの記事を読んでいても、内容だけでなく言葉で直接表現されていない、その記事を書いていた時のその人の息遣いや、記事の内容とは微妙に違ってたりもするうっすらとした想いに惹かれることが多いように思います。

今は昔よりも色んな媒体が増えて、そんな誰かの瞬間瞬間に立ち会える機会が多くなったわけですが、シンプルで余白が多いnoteは言葉で直接表現されなかっただけで、その時たしかに存在した何かにアクセスしやすいような気がします。

まるで掌に落ちてすぐに溶けて見えなくなってしまうひとひらの雪のように、その様を思わずまじまじと見つめてしまう。

noteにはそんな心地よさを感じています。

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