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映画「変な家」と夏井先生の句会ライブ

冴え返る朝、電車に揺られ、水戸駅を目指す。車内は小学生や中学生で溢れかえっている。そうか春休みか、と、その時に気づく。
中学生の女の子は、ここ十年ぐらいで大人っぽくなったなぁという印象。頭が小さくて足が長く、身にまとう洋服も、二十代の女の子と大差ない。それに、みんな垢抜けていて綺麗だ。でも男子はというと、男子、なんだよなぁ。中学生ぐらいの男の子達は、スマホでゲームをしながら電車に揺られていて、いかにも初々しい。他にも予備校生とか大学生とか、医学書を読んでるおじいさんとか、春色のコートを来たおばちゃんとかで、電車内はにぎわっていた。私はといえば、勉強用にダウンロードしたLo-Fiプレイリストを再生しながら、小川哲著作の『君が手にするはずだった黄金について』に夢中。先日同作者の『君のクイズ』を読み終えたばかりで、小川氏特有の「内側を掘り下げていく」ような、内在する思考の断片を組み合わせていく構成に、まんまと引き込まれていたのだった。

雨の水戸駅をくぐり抜けて、駅南口にある映画館へ。ここに来たのは去年のコナンくん以来かな。あの時、女子トイレに入った時に、中学生か高校生ぐらいの女の子三人組に声をかけられて、(もしかしたら例によって、大人っぽい小学生だった可能性もあるけれど、)「一緒に映画館の人のところへ行ってほしい」とお願いされたのだった。どうも、知らない男の人に「変なことを言われた」らしくて、動転して涙目の子もいて、ポップコーンやドリンクを販売するカウンターまで一緒に行ってあげた。その時に「私が蘭姉ちゃんだったら、変質者をやっつけられたのに」なんて思ったことをよく覚えている。
そんな回想をしつつ、チケットカウンターで切符を買う。さっき電車内でゲームをしていた男子達もいた。どうやら彼らは「ハイキュー」を観るらしい。近くにいた、これもやはり春休みであろう女子グループも、ハイキューの話をしている。人気があるんだなぁと関心しつつ、映画館を離れ、上映までの時間を近くの本屋でしのぐ。

「変な家」は、YouTubeの動画も観たし、出版されている本も読んだ。小説版のそれは、読みやすく、わかりやすい作品なのだが、陳腐で単調なわけではない。ジャンルとしては「ミステリー」や「ホラー」になるのかな。以前本屋でニコニコしながら「変な家」を買っていた女の子は、やはり中学生ぐらいで、「若い子に人気があるのかなー」なんて思ったこともある。そんな経緯もあり、きっと映画館は若い子で溢れているだろうなと思ったら、ドンピシャだった。小学生に中学生、高校生のグループがほとんどである。春休みだ。にぎやかだ。「私が一番年上なのか?」と感じるレベル。
映画自体は十分楽しめた。原作の「静かでじっとりとした恐怖」を、映画にどう落とし込むのか?と感じていたが、良くも悪くも様々な改変・演出が見られた。ともすれば「B級ホラー」や「スプラッタ」に転じてしまいそうな若干の憂いがあったが、絶妙に「ホラー映画」「ミステリー映画」に収まっていたかなという印象。正直これは、書籍版を読んだ時から感じていた違和感ではあるが、物語後半の「山奥の呪い村」「洗脳された村民の儀式」的な表現に対しては「そっちかぁ」という思いがある。これは完全に私の好みだ。ゆえに該当のシーンは恐怖よりも笑いの方が先行してしまった。チェーンソーを振り回すおばあちゃんのシーンは、本当に面白かった。
若く初々しい映画館の余韻を楽しみつつ、夏井先生の句会ライブへと向かう。今までの私は、若い子が沢山いると、集中して映画を見ることができなかったなぁ、と、反芻をする。隣の席の女の子が、豪快にポップコーンを頬張る仕草もその咀嚼音も、苛立ちには繋がらなかった。可愛いな、と、素直に思えたのだ。
春の雨は強まって、履きつぶしたスニーカーを水没させる。「そろそろ新しい靴を買わないとな」と、私は考える。

夏井先生は、私の憧れの人のうちの一人だ。水戸に来る、と知った時はほぼ即決でチケットを買った。時々「何かイベントに参加したい」「誰かのライブに行きたい」なんて考えてローチケやイープラスを眺めることがあるが、結局これだという催しに出会えず、気持ち半ばに諦めることがあるのだが、そもそも「なんでもいいから参加したい」という考えが誤りだなぁと感じていた。行く以外の選択肢がないもの、でなければ、きっと行っても楽しくない。
会場は先ほどと打って変わって、高齢者がほとんど。特におばちゃんが多い。プレバトの影響で足を運んでいる人は少なくないだろうけど、これがもし公開録画とかで、キスマイの横尾さんとか千賀さんがいたら、客層がガラッと変わるのかなぁなんてことを考える。時々小学生ぐらいの子とか、高校生とか、そういう若い子も見られたけど、二十代とか三十代の、それも「おひとり様」は目に留まらない。自分がここでも異端なことに気づいて、少し面白くなる。さっきは十代や二十代の子たちに囲まれた。きっと今度は五十代とか、六十代の人が多い空間である。
夏井先生はテレビで見るのと同じか、それ以上に面白く、豊かな人だった。なんかもう心があたたかくなりすぎて、最初の五分ぐらいは涙が止まらなかった。夏井先生を好きな理由は沢山あるけれど、その中でも「はっきりと物を言うのに棘がない」という部分が、特に好きなのである。愛や慈しみに溢れているなぁと、そのお人柄を感じていたけど、舞台上にいる夏井先生はまさにその通りだった。
お話の中で「伊藤園の新俳句大賞」についても触れられて、会場内で入選した人はいるか、と先生が観客に問いかけた際は、一目散に手を挙げた。舞台上から先生に「景品として、自分の俳句が印刷されたお茶が来ましたよね」といった声をかけられて、嬉々として「来ました!」と答える。この感じ、懐かしかった。恥ずかしさでおののくこともせず、また、承認欲求で自己顕示をするのではなく、ただ、「先生にあててもらいたい」そんな、子供の頃の記憶。教室の中で「私だけが答えられる質問」に巡り合った時の快感。それに近かった。
句会ライブでは、簡単にできる俳句のコツを伝授されたのち、その場で俳句を作らされ、提出を強いられ、その後優秀な句が選ばれ発表される。正直、夏井先生と会話できたことでドキドキしちゃってた私は、浮足立って俳句を作れる状態じゃなった。そもそも伊藤園で入賞した俳句だって、「目を瞑って打席に立ってバットを振り回してたら、偶然ヒットになって打点がついた」ぐらいの感じでしかなく、俳句を作る基礎力は、今の私にはほとんどない。時間ギリギリでひねり出した、幼稚な凡人俳句を提出する。両隣の席の方に「どんな俳句でお茶をゲットしたのか」と聞かれ、照れながら答えたり、夏井先生本当に面白いですね、とか、来てよかったわ、なんて話をして過ごす。
選出された七つの句が発表され、参加者達でその俳句について語り合う。どの俳句が好きか、その俳句からどんなことを想像したかといったことを、挙手をし、係員からマイクを受け取りコメントするのだが、そこでも私は果敢に手を挙げた。あててもらった人は夏井先生の名刺(松山市で使えるクーポンもついている)をもらえるのだが、私はこれがめちゃくちゃ欲しかった。私は童心に返り、ピンと手を伸ばす。この「自分から参加する」という体験が、それはもう懐かしくて、愛しくて、楽しくて仕方がなかった。アピールの甲斐あって、私はあててもらうことに成功し、自分の感想を述べて、無事に名刺をゲットする。松山に行かなくては。
一番優秀な句は、中学生の男の子が作った俳句だった。会場内は騒然。何よりも、選ばれた男の子が一番驚いているようだった。緊張していて、純粋で、とても可愛かった。
会はお開き。両隣の人に声をかけて会場を出る。雨は止んでいた。

映画館では若い子たちに囲まれて、自分が大人になったことを感じ取り、句会では人生の先輩達に囲まれて、かつての童心を取り戻した。タイムスリップをしたような一日だった。

三月二十五日 戸部井