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人間の分岐点

重大な決断を強いられるような場面は、生きていても滅多に発生しない。自分自身の今後の在り方に大きく関わる、人生を揺るがすような選択は、百年生きたとしても数回あるかどうかであろう。
しかし、人間の成長を促すような選択は、常に小刻みに発生しているのではないか、と考える。日常の些細な出来事、日々繰り返す小さな選択によって、それまで直進していた自分自身の在り方が数度傾くのだ。そのわずかな屈折の連続が、数か月か、あるいは数年単位で俯瞰して見た時に、大きな曲線となり進路を変え、見える景色そのものを変えていたことに気づかせる。

若々しく溌剌とし、自分自身の人生を謳歌するような、そんな高齢者に最近よく出会う。彼らは少しのことでは驚かないし、感情的になったり、自分に取って不都合なことを誰かや何かのせいにしたりはしない。長く生きた分経験や知恵が豊富で、何気ない会話からも多くの学びや閃きを与えてくれる。素晴らしき先輩であり、私は彼らのことを「師」として尊敬している。
しかしその一方で、俗にいう「キレる老人」という言葉を彷彿とさせるような、あまり関わり合いを持ちたくないような高齢者に出くわすことも、残念ながら度々ある。
彼らの違いは、一体なんなのであろうか。同じ年代に生まれ、同じ時代を生きてきたはずなのに、どうしてここまで差異が生じるのだろうか。それを生み出したのは何なのか。そして、いつどのタイミングから、差が開き始めたのだろうか。

明らかに不機嫌そうな態度で働く、恐らく学生であろうアルバイトがいる。集合住宅で深夜まで騒いだり、はめを外してお酒を飲み公共の場で嘔吐するような若者も、今も昔も変わらず存在し続けている。これらは普遍でしかなく、きっと百年先にも存在しているのだろうと思う。
彼らはやがて自分自身の恥を自覚し、気がつき、目を覚ますのだが、そのタイミングは人によってまちまちだ。そして悲しいことに、気がつけないままに大人になり、やがて老人になってしまうような人間も、残念だが一定数存在している。そのような低い成熟度で、悪しき童心が抜けないまま年を重ねるのは悲劇でしかない。
そういったゆえんからか、最近では態度の悪い若者を見る度に「これは彼らに取っての分岐点」と、思うようになってきた。その分岐は常日頃、人生のあらゆる場面に用意されている。些細なことと無視をしてしまえば、現状維持、直進し続ける人生だが、一つでも多く気づき、意識し、選択ができれば、ほんのわずかな屈折を機に、変容できる。それはもう始まっているし、これは何も、若者だけへのプレゼントではない。幾つになっても、自分の進路を少しずつ傾けることはできる。それを続けることで、直進しかしてこなかった者との差を生み出すことができる。仮に「自分はもう若くない」と思ったとしても、決して遅くはないのだ。人生を大きく分かつ差異の正体は、きっとこれらの中に存在している。

私は、自分の人生を謳歌する、高齢の先輩達を倣っている。彼らのように豊かに生きるために、今この瞬間から、そのように生きている。
彼らは、木を見ればその木の名前や由来、そして歴史を、また鳥の鳴き声を聞けば、その鳥の名前とその生態、逸話を教えてくれる。花も虫も空も、それぞれの名前があって、それを教えてくれる。彼らは、ただの散歩道に、幾千もの物語を与えてくれる。知識とは、なんと美しいのだろうか。

現代は、百歳まで生きる時代へと突入した。私に関していえば、あと六十五年もある。この人生、はじまったばかり。まだまだ若輩者でしかない。

十月一日 戸部井