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血液型で性格を語らんでほしい

パーソナリティについての分析、それに伴う科学的な研究、ざっくりと分類される「性格」の心理学について、私は深く興味がある。長年解明できなかった「自分」という疑問と向き合う手段としてそれらは実に有益で、冒険に出るための地図か、立ち向かうべき敵を倒すに必要な武器か、長い旅を始めるのに必要な、ある種パートナーにも思える。そういった役目としての知識や学問は、疑問に対する「答え」を導き出すのに必要不可欠な存在であると、日々痛感する。自分自身という「謎」に明確な答えを出すことができれば、それはそっくりそのまま「他人」という謎を解く鍵とも成り得る。
実体を伴わないそれらは、まるで水中の気泡か、宙に舞う粉雪か、誰かが発した言葉のように至極あいまいであり、単純でありながらも複雑さを秘めている。「自分」や「他人」、もしくは「性格」や「心理」というものは、固定することのできない、ゆるやかな水流のようだ、と表現することもできそうだ。

自分や他人の「性格」を語る時に、血液型の話をする人は、今も少なくない。十年以上前にそういったテレビ番組や書籍がブームとなり、ステレオタイプのごとく「A型は几帳面」「個性的なAB型」「О型は大雑把」「B型は変人が多い」などのすり込みを、ごく当たり前の、さもすれば一般教養という前提で話をする人は、令和五年の現在にも、まだまだ多く存在している。
私はこういった人に遭遇する度に、とても形容し難い心持ちになる。残念や呆れとも違う、憤りや哀しみでもない、言葉で言い表すには難解な、視界に靄がかかったような気分になるのだ。そこで私は「人間の性格や心理について、この人とこれ以上の話はできない」と悟ると同時に、血液型由来の性格分析の話を広げることなく、ただただ適当に相槌を打ち、愛想笑いをし、心の中でシャッターをおろすのだ。何も、「全ての人間が心理学や性格類型の多くを学ぶべきだ」とか、「血液型と人間の性格を関連付ける科学的な根拠はない」と、相手に強く訴えかけたいという願望があるわけではないし、単純明快な四つの分類に「誰でも当てはまるような項目」をちりばめて、それで納得できるのであればそれでいい。その人にとって「人間の性格」「自分や他人の謎」がそれで解決できるのであれば、それはそれで充分であり、分厚い書籍や、長い論文を幾つも熟読する必要がないのだから。ただ、私が今も続けている「自分を知る旅」や「他人という謎を解く」というテーマについて、少なからず今現在はそれを共有することはできない、と、そう悟るのだ。

地図や武器を手に入れて、冒険を始めている人間と、どこにも行かず、拠点となる町で暮らすことを選択する人間が、それぞれ存在して構わない。冒険に出ないことを否定したり、嘲笑うこともしない。けれど、本音を言うと、私は少し寂しいのだ。「あなたも私と一緒に旅をしてくれないのですね」と、冷たい風が心の中に吹くように感じられる。

「私几帳面なところがあるんだ、A型だからさ」なんてことを言われると、とにかく困る。ましてやそこから「あなたは何型? 」と聞かれ、それに答えると「へぇ意外! 全然そんな風に見えない」などと言われる。心底辟易とする。「血液型性格診断って科学的根拠ないし、っていうか令和になっても信じてる人、いるんだ? 」と見下したり、「性格というものはそんな単純に明言化できるものじゃないよ? 心理学の勉強したら? 」と突き放したり、「やめて~! 私パーソナリティ心理学に詳しいから、それ以上は聞いてられな~い! 」と笑いながら強制終了したり、何かしらの反応をすべきだろうか。実際、ごく自然な流れの中で「この血液型だからこういう性格」という言葉を耳にする度に、「あ、やめて」と羞恥心を掻き立てられる思いに至っており、そのわだかまりが蓄積したゆえに、こうしてnoteを更新しているのだ。これは何かしらの変化が必要なタイミングなのかもしれない。今後は勇気を出して伝えてみようか。(はぁめんどくさい。)今はそんなことを考えている。

十一月十五日 戸部井