女性差別に興味が持てない理由〜発達障害当事者のメモ〜

僕、桐谷慎也の身体的な性別は女性である。

「身体的な」と注釈がつく理由としては、そこそこ複雑で、女性の身体で性愛の対象が女性だったり、発達障害特有の適応のしにくさだったりして、「身体が女性であること」についての忌避感こそないものの、自分の性別を「女性である」とも「男性である」とも認識できないからだ。

この辺りはもうちょっと突っ込んで別記事として語るかもしれないので、今は「桐谷慎也の身体的性別は女性で、性自認はどちらともつかない」と認識してもらえればいい。

今回重要なのは、僕が発達障害当事者であるということだ。

ちまたでは女性差別が何かと取りざたされる。今はまさに、女性ファンの扱いについてネットが盛り上がっている。

だが僕はなかなか、アンテナを高く張っていても、女性差別の話題に関心を持ちきれないでいる。

その辺りの事情から始めて、この記事では「社会からどのようにして人権を付与されるのか」について、僕の見解を語りたい。

女性差別より先に直面する障害者としての問題

さて、前述の通り、僕は女性差別の話題に関心が持ちきれない。一応僕は身体的に女性であるし、そのことによって割を食うことも、ないではない。

ただ、性自認の曖昧さから普段はメンズの服を着ていたり、発達障害に起因する感覚過敏でサングラスを常時着用していたり、いわゆる「見るからに反撃しなさそうな女性」には見えないので、色々な被害をこうむる機会は少ないのだけれど(余談であるがメンズスーツで活動する時よりも、スカートで活動する時の方が電車における絡まれ率が若干上がる気がする)。

では、なぜ、僕が女性差別の話題に乗り切れないのか。

それは僕が発達障害当事者であり、身体的に女性であることによる不利益よりも先に、脳機能障害者としての不利益が来るからだ。

例えば、就職や職場において。「女性だから採用しない」「女性だから昇進させない」「女性だから賃金が低い」というものの前に、「障害者だから採用しない」「障害者だから昇進させない」「障害者だから賃金が低い」という現実に直面する。

僕は障害者就労の関係で支援を受けているが、そこで出会う発達障害者男性も、身体的に女性である僕と同じく「障害者だから」という理由による何らかの不利益をこうむっている。

これらのことから、発達障害者として生活する上では、男女の差よりも先に「障害者か、健常者か」というバイアスがかかっている。

もちろんその上で、男性障害者と女性障害者として性別のバイアスがかけられることもあるのだが、発達障害当事者がまず直面するのは「障害者か、健常者か」という問題であり、「女性か、男性か」というのはその次にやってくる。

意識してアンテナを張っていても女性差別問題に当事者性を感じられないのは、僕が男性であるか女性であるかよりも先に、障害者差別問題の方がハードルとして立ちはだかってくるからだ。

まずは、障害者―健常者という評価軸におけるハードルをクリアしない限り、男性―女性という軸のハードルを感じられない。

僕はこの認識自体は、自然なことだと思っている。仮に先にくるハードルが貧困によるものだったとしても、まずはそこをクリアにしないと男女差別について考えられないということはあるだろう。

現実的な問題として、何が第一にあるか。

それにより、どんなに意識しても当事者性を感じられないことがある。

僕はこの認識を自然なことと言ったが、それは「目の前にある問題の方に先に対処しないといけない」と考えてしまうのが個人として自然なことという意味である。

実際問題として、女性差別に取り組もうとする人々を減らす役割として「それよりも先に対処すべき問題がある」というのが機能している。だからこそ、取り組もうとする人が減る。

そこについては、大きな問題であると考えている。

既存社会への適合と人権付与の関係性

さて、ここでなぜ、差別というものがあらわになってくるのかを考えてみたい。

僕が思うのは、「人権とは、既存社会への適合があって初めて付与されるものである」ということだ。

まず、言葉の定義をはっきりさせておこう。

ここで記事で語る「人権」とは、憲法やら何やらによって制定される人権のことではない。

「実際のコミュニティにおいて個人として尊重される、意見が聞き入れられること」を「人権」と定義する。

例えばソシャゲにおいて「このユニットを所持しているのが人権」と言われるようなものである。FGOだったらマーリンとか孔明とかだ。そのユニットをガチャで引いて、育てて、サポートに置ける。そこで初めて「発言権を持つユーザ」として、ゲームコミュニティで認められること。それがこの記事で語る「人権」だ。

これを女性差別や障害者差別について考える時、どういった場合に人権が付与されるのか。

それは「既存社会への適合」から読み解くことができる。

例えば女性であれば、「育児と仕事を両立する」「ファンとして多額のカネを落とす」「男性と同等の立場を確保する」というのが、既存社会への適合であるかもしれない。

障害者であれば、「自助努力によって健常者と同等、あるいは許容される範囲の能力を手に入れること」が既存社会への適合である。

ここで注意してほしいのが、あくまでこれらは「現在規定されている社会というものに適合すること」である。

発言権や人間としての尊重は、まず既存社会への適合ありきだ。そこで初めて人権が与えられる。

そして既存社会というものは、既に権益を持っている者――それは例えば男性だったり、健常者だったり、時には富裕層だったりする――にとっては無条件に人権を付与するようにできている。

だから、既存社会に適合できない者は、人権がないものとして扱われる。これが差別の第一段階なのではないかと僕は思う。

さらに言うと、既存社会にめでたく適合して人権を与えられたとしても、それは制限つきの人権だ。適合の努力を続けなければ剥奪されるし、そもそも「適合が必要ということは劣った存在だ」とみなされることもある。これもまた、差別の段階のひとつだと僕は思う。

そして、既存社会から人権を付与されるために満たすべき要件というのは人によって違ってくる。例えば僕なら、「身体的に女性であること」による適合よりも、「発達障害者であること」による適合の方が先に来る。

そのため、問題だと考えたい女性差別について、当事者性を持てない。問題だと考えられない。これが集団の分断を生んで、本当は改革すべき「既存社会」の孕む問題に対して一枚岩で対応できない

そういうものが、もっともっと大きな問題として立ちはだかっているように思う。

完璧でなければならないという圧力が差別を生む

さてここで問題となるのが、「既存社会が想定する人権を持つ者とはなにか」である。

こと日本社会においては「心身ともに健康で、あらゆる面で多数派に所属する男性」を基準としているように僕は思う。他の社会や文化圏については、実際に入ってみた経験に乏しいため語るべき言葉を持たないというスタンスを取らせてほしい。

この「既存社会が想定する人権を持つ者」というのが、既存社会における「完璧」を意味する。そして「完璧でなくてはならない」という圧力は、翻って「完璧でない者には問題がある、人権を剥奪するに値する」という効力を持つ。

個人的な経験であるが、発達障害者としての就労を通して僕が得た感覚は次のようなものだ。

今の日本社会は、個々が完璧であることを求める。
ひとつのことを突き詰めた専門家よりも、広くなんでもこなせるジェネラリストを求める。

発達障害当事者としては、自分が熱中でき、誰よりも得意としていることを突き詰めるよりも、自分の弱みを潰して平均まで引き上げることを求められるように感じる。

そして多分、女性問題としては、既存社会から与えられるロールを完璧にこなして初めて、問題のない存在として人権を与えられるのだろう。多分。

このような完璧志向というのは、完璧でない人間を劣った者とみなす。それもまた、差別を生む要因となっているように思うのだ。

劣った者に発言権はない。尊重されることもない。大体、尊重される保証もない。

これが差別でなくて、なんだというのだろう。

すべての人が尊重される社会のために

発達障害というのが何故存在するのか。

その一説に、多様性が挙げられる……らしい。ごめんね、一応大学で勉強はしたんだけどこの辺りは詳しくないんだ。

多様性という説によると、ほとんど均質的で突然変異のいない種というのは、大きな環境変化が起きた時に種そのものが絶滅する可能性が高いそうだ。そのため全く別の発達過程やら何やらを備えた存在をあえて淘汰しないことは、種の保存に貢献するという。

これは多分その他の差別でも同じことで、今回取り上げている女性問題について言うなら、何らかの事情で男性が死滅した場合、男性しかいない種であれば絶滅する。この辺はよしながふみの大奥とか、フィクション世界でちょこちょこ採用されたりする設定でもある。

まぁ大体、人間が単生生殖でない以上、男性と女性が両方いてセックスしなければ種が滅ぶんだけど。

閑話休題。

個人的なことで恐縮だが、僕は論理的な考え事を突き詰めるのが好きだ。

人と意見を交わして、議論をし、ブラッシュアップしていくことも好きだ。

一人で黙々と勉強し、なにかを書き、必要に応じて教えを乞うのは結構得意な方だと思う。

だけど、ストレスに弱くて体調を崩しがちだというマイナスポイントを埋めることを求められて、それを克服できなければ得意なことをする許しを得られない。

これはあくまで僕個人の特性なのだけれど、他の特性を持つ、「人権」のない人々にも何かしら当てはまる部分はあると思う。

人間には、健常者――発達障害者に対して表現するなら、定型発達者と言ってもいいかもしれない――にはできないこともあるし、発達障害――この場合は非定型発達者という言い方がわかりやすいかもしれない――だからこそできることもある。

だけど、障害の有無なんて置いておいても、「あなた」だからこそできること、「あなた」以外にはできないことが、きっとあるはずだ。

人間は社会的な動物だと言う。その論に対して言うならば、集団でこそ生み出せる利益や価値というものがあるのではないだろうか。

そして、既存社会の求める人権要件をクリアした均質的な集団を目指すよりも、均質的になるための努力を別の方面に振って、それぞれの長所を活かした方がいいのではないか。

だってあなたの短所は誰かの長所だし、あなたの長所は誰かの短所だ。お互いの長所を持ち寄って、それを最大限に活かす方が、既存社会への適合に労力を使うよりもよほど、利益や価値を高められるのではないか……と思う。

だから僕は思う。

社会というのは、自力で短所を補うよりも、互いの長所を持ち寄ることに終始すべきだ。

そこで初めて、差別のない社会に対する第一歩が踏み出せるのではないだろうか。

だから僕は、女性差別に興味が持てない。

なんだかすごくセンチメンタルな気持ちで書いているので、思ったよりもエモーショナルな文章になってしまった。もうちょっと理路整然と書きたかったのにな、まぁ仕方ないか。

さて、発達障害当事者から見た差別の撤廃というのは、「既存社会への適合で人権を与えるよりも、人間個別の多様性を認めて長所を活かそうよ」ということになる。

ただ、現在取りざたされがちな女性差別というのは、割と「女性だからというだけで締め出すな」という主張に起因するものが多い、ように思う。

差別というものには色々な要因とか段階とかがあって、既存社会への適合への疑問も、特定の変えられない属性を持つ存在を締め出すことに対する異議も、どちらも差別に対する闘争だ。

だけど僕は、締め出しへの異議よりも、「既存社会への適合だけで人権の有無を変えないでくれ、僕に発言権をくれ」というのが、どうしても先に来てしまう。そっちの方が、手前にあるハードルなのだ。

だから僕は、身体的に女性でありながら、女性差別に興味が持てない。もっと言うと、別の方向性の場所を戦場と定めてそこで戦うことで手一杯だ。

人生は戦場で、人間は兵士だ。

だけど戦う場所くらいは、自分で選びたい。

本当は、みんなで一丸となって戦えればそれが一番いいのにね。多分、そういう分断こそが、既存社会の思う壺だから。

僕はこの問題に対して解決策を持っていない。日々の戦いで、既に疲弊しているから。


願わくば、この世が戦場でありませんように。

戦いがひとつ、終わりますように。

これが僕が、発達障害当事者であるゆえに女性差別に興味が持てない理由です。

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