日本会議通訳者協会

一般社団法人 日本会議通訳者協会は2015年4月1日に発足した日本唯一の「会議通訳者に…

日本会議通訳者協会

一般社団法人 日本会議通訳者協会は2015年4月1日に発足した日本唯一の「会議通訳者による会議通訳者のための」非営利通訳者団体です。 https://www.japan-interpreters.org/

最近の記事

【第36回】駆け出しのころ「勉強と感謝でつづる、かけだし物語」

始まりは本の表紙 小学校低学年の頃、興味を惹かれたのが海外児童文学の本の表紙に「さくしゃ」と並ぶ「やくしゃ」でした。外国語と日本語との間に介在する、その不思議な存在が魅力的に映ったのです。 「やく」との出会いから10年。英語の勉強に夢中になった私は、高校、大学でそれぞれ1年間、アメリカとカナダに留学しました。留学先の高校では、はじめは宿題に連日夜中までかかっていましたが、次第に授業についていけるようになり、「理解できるとこんなにも世界が広がるんだ!」と嬉しい発見に至りました

    • 【第35回】駆け出しのころ「七転び八起き」

      イギリスへ語学留学 私が初めて英語に興味をもったのは、中学生の頃、近所の友達の家にアメリカから交換留学生がやってきた時のことです。テレビでしか見たことがない外国人と遊んで、片言の会話ができた時は有頂天になりました。それをきっかけに近所の英会話教室に通い始めて、大学生になってイギリスに語学留学しました。最初はイギリス人の話す英語が全くわからなくて愕然としましたが、少しずつ耳が慣れてきて、1ヶ月くらい経つとクラスメートたちとパブに行って、おしゃべりを楽しめるようになっていました。

      • 【第34回】駆け出しのころ「ブエノスアイレスで通訳に~何事も無駄にはならない~」

        私は地球の反対側、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス在住で、スペイン語通訳者として活動開始して今年で27年になります。 初めて正式に仕事として通訳をしたのは、1993年2月。当時JICAの海外開発青年プログラムで日本語教育普及を目的としてアルゼンチンを訪れ、在アルゼンチン日本語教育連合会で働いていた私は、ある日、一本の電話を受け取りました 。聞けば、翌月3月から鉄道会社で日本語とスペイン語の社内通訳を探しているとのこと。ちょうど2月末で任期が終了するのに伴い、3月から言語科

        • 【第33回】駆け出しのころ「らせん階段と下りのエスカレーター」

          私にとって憧れの通訳は遥かかなたでした。 公立の中高でふつうに勉強しただけの英語だったので、外国語に定評のある大学に入ったからといって、それで英語力がぐんと伸びたという訳にはいきません。それでも背伸びをして貯金をはたいて、S社の通訳講座に半年通いました。大学3年の時です。その結果分かったのは、何もかも足りない!私には通訳は無理!という悲しい結論でした。 気を取り直して、その場で通訳するのとは違い、じっくりと時間をかけられる翻訳ならなんとかなるかもしれないと、方向転換して、ノ

        【第36回】駆け出しのころ「勉強と感謝でつづる、かけだし物語」

          【第32回】駆け出しのころ「勉強は絶えずに」

          通訳者になろうと思ったきっかけ 私は最初から通訳者になることを目指していたわけではありませんでした。日本語の学習歴こそ長いものの、通訳ができる人間ではないと前から思っていました。もともと臆病で遠慮がちな私は、一日中日本語で人と話す仕事などとてもできないと思っていたのです。しかし、経済不況真っただ中の2009年に私は大学院を卒業して、残念なことに当時目指していた職業で就職ができなかったので、なんとなく通訳者になってしまいました。ちょうど通訳者を募集していた企業が近くにあり、他の

          【第32回】駆け出しのころ「勉強は絶えずに」

          【第31回】駆け出しのころ「熱しやすさと冷めやすさのはざま」

          子供の頃、その熱しやすく冷めやすい性格が手伝って、なりたかった職業は数知れず。探偵になろうと尾行を始め、お菓子屋になろうと図書館のレシピを片っ端から試し、ハーバリストになろうと実家の庭をハーブでジャングルにしてみるも、数か月後にはすっかり忘れてまた違う職業を探していました。そんな子供時代、天職探訪とは別に、いつも頭のどこかにあったのが、日本語でない言葉への不思議と憧れでした。外国語を話す人を見るたびに、まるでサーカスの離れ業を見てしまったような、そんな驚嘆と感動で胸がいっぱい

          【第31回】駆け出しのころ「熱しやすさと冷めやすさのはざま」

          【第30回】駆け出しのころ「音楽と英語~ふたつの『好き』を仕事にして」

          誰しも、子供の頃にはキラキラした夢を持っていたと思います。好きなこと、やりたいことを口に出し続けていたら、たくさん仲間ができて、いつの間にか世界が広がり、夢の実現に近づいていた。そんな経験を少しずつ重ねながら、たくさんの素敵な出会いがあり、今につながってきました。 学生の頃の私は、世間一般から見たら、明らかに「普通」の女子とは違いました。中学生のときに洋楽に出会い、ハードロック・ヘヴィメタルにハマり、当時の夢は音楽雑誌の記者になることでした。中学の卒業文集には「洋楽雑誌の記

          【第30回】駆け出しのころ「音楽と英語~ふたつの『好き』を仕事にして」

          【第29回】駆け出しのころ「革命いまだならず」

          1990年の秋、「あ」の字も知らなかった私は、日本での生活をスタートすることになりました。それまでは南京にある大学で経済学の講師をしていましたが、天安門事件を機に大学がほぼ休講となり、急遽主人の留学先である岡山へ行くことを決めたのです。当時はテキストを買うお金もなく、テレビやチラシなどを使って日本語を猛勉強し、バイト先の日本人を相手に練習する日々。一年後には「日本語能力試験1級」に合格しました。 通訳者になる契機となったのは、1992年に通訳・翻訳アルバイトとして務めた某鉄

          【第29回】駆け出しのころ「革命いまだならず」

          【第28回】駆け出しのころ「同時通訳の思い出は、ビールとともに」

          エルビーニア ユリアの人生を形成した幼少~学生時代 「私は~です」と一人称で訳そうか、それとも「この人は~と言っています」と話し始めるべきか。名古屋の小学校で全校児童を前に、11歳の私は一瞬考えました。そう、これが私の「なんちゃって通訳デビュー」です。日本で生まれた後、父の駐在のため約十年間を海外で過ごした私は、帰国後すぐに地元の小学校へ。その後、現地で通っていた英国系インターナショナルスクールの先生が旅行で来日。行動派の母が、勝手に地元の小学校と交渉をし、外国人先生の「日本

          【第28回】駆け出しのころ「同時通訳の思い出は、ビールとともに」

          【第27回】駆け出しのころ「危機をチャンスに。学びに終わりはありません」

          高校を卒業する日、母にいきなり「航空券買ったから明日ペルーに帰って」と言われました。来日して6年間、どんなに母国に帰りたかったか。とはいえ、あまりに突然で唖然としました。 翌日、成田空港で母は首かけのパスポートケースを買い、そこにパスポートではなく200ドルを入れました。紐を私の首にかけ、ケースは服の下に隠しました。ペルーに着いてからも、買い物に行くときは財布ではなく首掛けケースを服の下に隠してお金を持ち歩きました。 時は1997年。在ペルー日本大使公邸占拠事件の真最中で

          【第27回】駆け出しのころ「危機をチャンスに。学びに終わりはありません」

          【第26回】駆け出しのころ「イルカを通訳してみて分かった1つのこと」

          初めての大型通訳案件の後、「クリス見てあげるよ」と声をかけてくれたスピリチュアルな依頼主に「前世」を見てもらった。どうやら前世では戦場で相当やらかしたらしく、その代償として現世のテーマはなんと「痛み」。大学を出たばかりの希望に満ち溢れる若者にそれ言う!?ヒーラーの方ですよね……と、笑い飛ばすしかなかった。これまで痛みはあらゆる手を使って避けてきたし、これからも避け続ける気満々だった。当時二十歳そこそこで相当フラフラしていたが、「痛みは最小限に」この一点に於いては人生の方向性に

          【第26回】駆け出しのころ「イルカを通訳してみて分かった1つのこと」

          【第25回】駆け出しのころ「40歳で訪れた人生2度目の転機」

          人生ちょうど半世紀、振り返ると大きな転機は2度ありました。渡米した20代前半と通訳をスタートした40歳。「昔少し憧れてはいたがすっかり諦めていた」会議通訳という仕事。ひょんなことから一度その舞台に立ったが最後、もう後戻りができなくなってしまいました。 社内通訳時代と専業主婦時代 20代後半に社内通訳の仕事に就き、取締役会議で通訳したり技術文書の翻訳をしました。当時夜間の翻訳学校に通ったことが今に繋がっています。夫の会社の経営が上手くいき、郊外に家を買ったのをきっかけに、引っ

          【第25回】駆け出しのころ「40歳で訪れた人生2度目の転機」

          【第24回】駆け出しのころ「人見知り少女、通訳になる」

          通訳者といえば、どんなイメージがありますか? 社交的で話好き、海外に住んでいて外国語がペラペラ…… 私も最初はそのようなイメージがありました。でも私はそのどちらでもありません。今でもなぜ通訳をしているのだろうと思うことがあります。 中学生のころ、兄が聴いていたFENの英語放送が歌のようで綺麗だなと思ったり、当時聴き始めたロックやポップスの歌詞が知りたいと思ったり、音から英語に興味を持ちました。英文科に進み、アメリカ人教授のゼミで現代詩を専攻。「文学」を学びたかったわけではな

          【第24回】駆け出しのころ「人見知り少女、通訳になる」

          【第23回】駆け出しのころ「忘れられない単語」

          忘れられない単語がある。 2012年、米国カリフォルニア州のモントレー国際大学院(現・ミドルベリー大学院モントレー校)で会議通訳を修めた後、日系製薬企業のアメリカ支社で通訳者としての勤務を始めました。根っからの文系で、製薬の知識はゼロ。冒険心だけで入社を決めました。 入社して間もなく、PV(ファーマコビジランス。医薬品安全性監視)に関する会議で同時通訳を担当。その時に初めて耳にしたのが“agnostic”という単語でした。瞬時に頭をよぎったのは、哲学で聞きかじった「グノー

          【第23回】駆け出しのころ「忘れられない単語」

          【第22回】駆け出しのころ「三度の駆け出しを経て」

          バブル期がピークアウトし始めた1992年、名古屋の特許事務所で翻訳を担当していた私に一本の電話が入ります。 「まもなく開業する通信会社が、アメリカ人役員の秘書を探しています。ご興味ありますか?」 海外生活といえば高校時代の交換留学のみで、読み書きはできても会話には自信のない私でしたが、外国人と仕事がしてみたいという好奇心から、二つ返事で転職を決めました。何をやっても三日坊主で飽きっぽい私が30年近くお世話になる、通訳としての「第1章」のスタートです。 秘書としての採用で

          【第22回】駆け出しのころ「三度の駆け出しを経て」

          【第21回】駆け出しのころ「多くの出会いに恵まれて」

          学生時代の私は、自分が将来通訳の仕事をするなんて想像もしていませんでした。日本から出たことも駅前留学(英会話学校を意味する死語)もしたこともない私にとって、英語は大学受験の一科目という位置づけで大学では英語の授業は履修もしませんでした。 ただ、せっかく覚えた英単語を完全に忘れるのももったいないような気がして、NHKのラジオ英語番組をMDに(時代を感じますね!) タイマー録音して通学中の暇つぶしに聴いていました。主人公が離婚危機に陥ったりと翌日の続きが気になるストーリー展開で

          【第21回】駆け出しのころ「多くの出会いに恵まれて」