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【新型コロナへの対策の情報に対して、一人ひとりが考え、納得して行動をするためのシリーズ その2】


「PCR検査を受けると医療崩壊するから、軽症者は自宅待機を」という説を広めている人たちがいる。

 私(一応、医学博士、学位論文は感染症の数理モデル)は、やっぱり早期発見・早期予防であるはずだと信じてきた。

 冒頭の説を唱える人は、「医療資源が限定されているから、重症者を優先すべきである」というのが主張の根幹である。
 しかし、これは非感染症の疾病モデルではないか、と考える。軽症者は、自ら軽症者であると自覚をどのようにすればいいのか? 

早期に自覚できなかった保菌者がとる行動は?

微熱や咳が出てくれば疑い始めることができようが、それでも、すぐに自覚できたり、行動抑制に移れる人は少ないだろう。それまでの間に人に感染させているはずである。

日常の行動は、経済活動を始め、生きるために必要なものが大半であるため、「陽性です」と判定されるまでは、行動抑制できない人が多いのは、もうニュースで散々、報告されている通りであろう。

なぜドイツは死亡率が低いのか?

ドイツで死亡率が低いのは、「かかりつけ医が割り当てられているため、資源配分がすばらく機能しているから」と報道されてきた。

それだけで説明できるかと、どこか半信半疑であったが、(オリンピックの延期が決定し、患者数の把握に努めることへの抵抗感が世間あるいは政策上?に抵抗がなくなってから)、下記の報道が出てきた。

 当然だろうと思う。20代、30代と若い人ほど、もともと活動的であり、加えて症状を自覚できるまでは元気でもあるため、感染させる率が他の年代より高いはずだ。

 そのため、自覚症状があれば医師の判断で検査できるということが広く世間に知られたら、そして保険適用であるということとともに広まれば、「受診率」も高まるだろう。


ドイツと日本

日本人も、ドイツ人と似た国民性ももつこともあり、ドイツに倣うことで、今の低い死亡率を高めることができるだろう。

日本の政策立案者は、ドイツに後塵を拝するのが嫌だと思って、この後に及んでエゴを発揮するのだろうか。そもそも日本の法律の基盤は、ドイツの影響を多分に導入されているのだが・・・

その場合は、日本でも、早期発見で成功した和歌山県モデルを横に広げればいい。
 でも、これも、政府の方針に従わなかったことが起点であるから、難しいか・・・。

 エゴは、議論をする際には、大いに動因になる。でも、議論は勝ち負けよりも、3番めの他のさらにいいアイデアを、切磋琢磨して生み出すためである。

 こういう弁証法の真髄が、西洋文明の吸収に舵をきった明治以後も、戦後も、国民に浸透しなかったことが、今の政治状況(当然、国民を含む)を生んだのかも知れない。

IからWeへ 

I は、近代的自我とされるが、おそらく一神教で神と自分が向き合うときにできる意識。日本人は西洋化されても基督教は浸透しなかったので、これを経ていない。

一方、少なくとも江戸時代からは「空気」としての「世間」というものを感知するように訓練されてきたようだ。幕藩体制を維持するには、町民らが、お上に従っているかを相互監視させ、また明確な指示がなくても、お上の意向に全員が一致して従うのが、管理上、効率的である。

こいう「We的な感じのもの」こそが、やっかいである。

自己責任なんて言葉が、西洋から導入されてきた。ならば、まず情報の解釈のレベルで、しっかりと「I」として考えて その上で、公助が期待できそにないならば、「自助努力」を相互に助け合う「共助」のために、互いの壁を越えたWeいなりましょうよ。

 話は疫学からそれてしまったが、コメンテーターをしている医師で疫学も実践的に関わったはずの者が、感染症の早期発見、早期治療に思いを致さないのは実に不思議だと思う。
もしかして、厚労省に一時期でも在籍した医師は、忖度する心が働くのだろうか。

一人ひとりが頭で考えて、納得した上での行動を

 そんな憶測をしても生産的ではないので、我々、一人ひとりの者が、いろんな情報を得ても、自分の頭で納得して行動できるために、ささやかながら私も見解や基礎知識を発信してみたい。不安や恐れだけで行動しないためにも。