見出し画像

”腹腹時計”~半世紀逃げ切った”都市ゲリラの衝撃=誰でも顔だけは知っていた桐島聡が伝えた”テロ時代の残響”

今回は、ある国会議員(与党)から入手した警備公安当局が説明に訪れた際に渡されたペーパーがあるので、画像解説の形で進めよう。そう、ほぼ半世紀にわたり街中の交番や公共施設などに貼られた手配書によって、誰もが顔を知っていたのに、本人(と思われる)が病床で名乗り出るまで捕捉されなかった、「東アジア反日武装戦線」のテロリスト、桐島聡についてだ。


もう、彼の関わった事件や組織背景などについて、どれくらいの人が覚えているのだろうか…?



【画像①】

この太目の黒フレームの眼鏡、1960~70年代の学生によく見られたセミロングヘア、この顔は中学時代以来、おなじみだった。「過激派」という言葉は既に小学3年生頃、それこそ「東大闘争」だの、その後の「あさま山荘事件」だのでテレビで耳にしていた。しかし、この桐島の企業爆破テロに関わり「東アジア反日武装戦線」と名乗っていたことについては、かなり強い印象を受けた。


1970年代は後半になっても、いわゆる「従軍慰安婦問題」なるものはまだ顕在化してもおらず、また共産中国とは国交正常化の道筋がついたばかりで、国際関係において「反日」という言葉はあまり使われていなかったと記憶している。にもかかわらず、跳ね返りの過激派日本人が、自らの組織を「反日~戦線」と真向から日本を否定して闘うようなネーミングで呼んでいたことに、強いインプレッションを受けたのだ。


「反日」を掲げて、日本の代表的企業の1つである三菱重工の本社ビル(東京都千代田区)を強力な爆弾で爆破し、8人の死者を含む400人近い死傷者を出させたテロリストが、一種異様な笑みをした手配写真で毎日、通学などの際に見つめられるような感覚は、かなり不気味な思いがしたものだ。




【画像②】


1974年8月30日、東京・丸の内のビジネス街の中心部にある三菱重工本社前で、白昼大爆発が起きた。約40kgのダイナマイトが使われた白昼の無差別爆弾テロで、死者8人、重軽傷者385人を出した。写真は当時のテレビ報道の映像から得たものだ。夏休みの夕方、現場でYシャツをボロボロにして頭からも血を流したビジネスマンたちがふらふらと逃げようとしたり、道路に横たわっているさまは凄惨そのもので、ニュース番組で放送を繰り返される映像を中学生だった筆者は何度も見た。


テロは三菱重工にとどまらず、三井物産、帝人、大成建設などで繰り返された。「東アジア反日武装戦線が犯行声明」というフレーズがその都度流れ、なぜか「大変なことになった」と思った。当時、まだベトナム戦争が続いており、筆者の頭では「アメリカ軍が侵略しているのに対して、ベトナム人民が闘っている」(まだ、それほど左系ではなかったのだが…)という認識で、その際、ベトナムでの正義の味方は「南ベトナム民族解放戦線」という呼称の勢力だった。


これに似た「~戦線」という名を持つ勢力が、大企業とはいえ普通の勤労者・サラリーマンを無差別に攻撃し、死傷させたということも精神的に受けた衝撃をより大きくするところとなった。そして、「こいつらのやることは、正義じゃない!」とも即座に怒りと共に思い込むことにも繋がったのだ。後に共産党に傾倒するようになりつつも、過激派は嫌いだったのは、この爆破テロへの鮮烈な印象と怒りが強く影響したのだと思う。




【画像③】


桐島ら「東アジア反日武装戦線」が「都市ゲリラ戦のために」と称して、手製爆弾の製造法を教示した『腹腹時計(はらはらとけい) 都市ゲリラ兵士の読本 VOL.1』というパンフレットを発行していたことも、事件当時からしばらく話題になった。「爆弾テロの連鎖で社会不安を作り出し、革命成就の条件と気運を社会に作り出す」「日本の帝国主義的進出の先兵である大企業に鉄槌を下す」という、もう当時の左翼常識でもきわめて幼稚な理論に基づくものだったが、実際に本気で爆弾テロを連続して実行してみせたところで、国民を震撼させたことは間違いない。



ここから先は

1,349字 / 7画像

インテリジェンスウェポン正会員

¥1,500 / 月
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?