我らが誇り高い姉妹であった Shuhada' Sadaqat (専ら Sinéad O'Connor として知られてはいる)の死を弔う



بسم الله الرحمن الرحيم



وَقَالَ اللّٰهُ لَا تَـتَّخِذُوۡۤا اِلٰهَيۡنِ اثۡنَيۡنِ‌ۚ اِنَّمَا هُوَ اِلٰـهٌ وَّاحِدٌ‌ ۚ فَاِيَّاىَ فَارۡهَبُوۡنِ

وَلَهٗ مَا فِى السَّمٰوٰتِ وَ الۡاَرۡضِ وَلَهُ الدِّيۡنُ وَاصِبًا‌ ؕ اَفَغَيۡرَ اللّٰهِ تَـتَّـقُوۡنَ

وَمَا بِكُمۡ مِّنۡ نّـِعۡمَةٍ فَمِنَ اللّٰهِ‌ ثُمَّ اِذَا مَسَّكُمُ الضُّرُّ فَاِلَيۡهِ تَجْئَرُوۡنَ

ثُمَّ اِذَا كَشَفَ الضُّرَّ عَنۡكُمۡ اِذَا فَرِيۡقٌ مِّنۡكُمۡ بِرَبِّهِمۡ يُشۡرِكُوۡنَۙ

لِيَكۡفُرُوۡا بِمَاۤ اٰتَيۡنٰهُمۡ‌ؕ فَتَمَتَّعُوۡا‌ ۖ فَسَوۡفَ تَعۡلَمُوۡنَ

وَيَجۡعَلُوۡنَ لِمَا لَا يَعۡلَمُوۡنَ نَصِيۡبًا مِّمَّا رَزَقۡنٰهُمۡ‌ؕ تَاللّٰهِ لَـتُسۡــَٔلُنَّ عَمَّا كُنۡتُمۡ تَفۡتَرُوۡنَ

وَيَجۡعَلُوۡنَ لِلّٰهِ الۡبَـنٰتِ سُبۡحٰنَهٗ‌ۙ وَلَهُمۡ مَّا يَشۡتَهُوۡنَ ‏

وَاِذَا بُشِّرَ اَحَدُهُمۡ بِالۡاُنۡثٰى ظَلَّ وَجۡهُهٗ مُسۡوَدًّا وَّهُوَ كَظِيۡمٌ

يَتَوَارٰى مِنَ الۡقَوۡمِ مِنۡ سُوۡۤءِ مَا بُشِّرَ بِهٖ ؕ اَيُمۡسِكُهٗ عَلٰى هُوۡنٍ اَمۡ يَدُسُّهٗ فِى التُّـرَابِ‌ ؕ اَلَا سَآءَ مَا يَحۡكُمُوۡنَ

لِلَّذِيۡنَ لَا يُؤۡمِنُوۡنَ بِالۡاٰخِرَةِ مَثَلُ السَّوۡءِ‌ۚ وَلِلّٰهِ الۡمَثَلُ الۡاَعۡلٰى‌ ؕ وَهُوَ الۡعَزِيۡزُ الۡحَكِيۡمُ





↑本当はこの、中村明美という、NY在住らしいが一神教としての帰依を果たしたか否かを判断するだけの材料はさしあたり見当たらない記者が、我らの誇り高い姉妹である Shuhada' Sadaqat の死に際して「心よりご冥福お祈りいたします。」(格助詞の脱落は原文ママ)と "追悼文" を述べていることに対する憤激を連ねようかとも思ったが、それをしてしまえば我らが姉妹の肉体後の段階への移行に伴うべき静けさを乱すことになりうるので、ここではひとまず自制する。少なくとも現時点では、我らが姉妹が全能なるアッラーの定め給うた寿命を果たして亡くなったか、それとも自殺したか(←数年前から「自殺」という正確な表現を「自死」と改竄して何らかの配慮を行なったかのように錯誤している輩が大勢出始めたが、吐き気を催す欺瞞である。「死」はそもそも「自」ら起こせるものではない。肉体的に絶命した側の人間への弔いが・さしあたり生きている側の人間によって果たされうる状態で初めて「死」は成立するのであり、「自」らの「死」はそもそも他人によってしか担われ得ないのだ。もちろん他人を殺傷することが可能であるように、「自」らを「殺」すことはできる。しかしそのようにして命を絶った人間の「死」はその肉体的な遺骸を残された他者たちによってしか担われ得ず、その時点で初めて「自殺者の死」は発生するしかないのだ。現に、自殺者の遺骸が死後数日にわたって放置される事態などこの日本国では日常的に発生しているだろう。そんな他者の「死」を発生させる役目すら果たせなくなっている共同体の内部者が、一体何に後ろめたさを感じて「自死」などという意味不明な表現を用いるようになったのか、私には全く理解できない)すら定かでないのだ。この中村明美という、おそらくは多神教徒か無神論者なのであろう輩は、ムスリマたる我らが姉妹の死後に関して一体如何なる想像力を働かせて「心よりご冥福お祈りいたします。」などとほざいているのか。アイルランドカトリックの国家に生まれ様々な無理解に曝されつつも真実に帰依しムスリマとして肉体的な役目を終えたShuhada' Sadaqat が生涯にわたってけみした苦艱について、このような輩が一体何を理解しているというのか。一体どのような死生観に基づいて「冥」府にての幸「福」を祈ることができるというのか。そのような宗教的欺瞞を最も許さなかった者が他でもない Shuhada' Sadaqat であったというのに、この中村明美は「心よりご冥福お祈りいたします。」という純日本的愚昧性の発露でもって故人に最大の侮辱を与えていることにすら気付いていない。


 もうよい。以上の内容で十分だ。単なるムスリムのひとりでしかない私には、もし彼女の死因が自殺であったとしても、 Shuhada' Sadaqat がその全生涯にて果たしたあらゆる闘争、そこに込められていた正義を、来世にて全能なるアッラーがよみし賜うことを祈るしかない。本当に気高く美しい人間が喪われた。そして彼女の死後に与えられる報いが如何なるものかは、ひとえに全能なるアッラーの御慈悲に委ねられる。

آمين
يا رب



↑簡潔にして要を得た記事。彼女がいかに妥協を許さない偶像破壊者であり謙虚なイバーダの人であったかが理解されるので、ぜひ読まれたい。
 この記事を標準的なジャーナリストの品格として設定し・中村明美のそれと比較すると、 1: Shuhada' Sadaqat という真の故人名を一度も表記していない 2:まだシャハーダを遂げていなかった80-90年代の頃の写真ばかり掲載し、死の直前の故人がどのような状態であったかの視座を全く欠き、単なる「わたしが知っているあの頃のスター」追悼記事に終始している という致命的な欠陥ばかりが浮き上がる。当然ながら、このような仕打ちは故人への冒涜以外の何物でもない。


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