沼犬

 ジップロックの中から彼女はわたしを見ている。保存液が注がれたジップロックの中から彼女の目がわたしを見ている。ダクトテープで壁に固定されて保存液がダポダポに注がれたジップロックの中から彼女の眼球がわたしを見ている。彼女の目。ラブリーな目。薪ストーブと本棚とソファとサイドテーブルとネイティブアメリカン風の絨毯とIKEAのゴミ箱と二重窓と焦げ茶のカーテンと黄色のドアと十一月のカレンダーと彼女のラブリーな目。わたしはその目を壁から外した。ダクトテープを剥がして指にくっつくのをメトメトと丸めてゴミ箱に投げた。それは絨毯の上に落ちて貼り付いて止まった。もうすぐこの家の主が帰ってくるだろう。ウォルマートで買ったペティナイフがコートのポケットの中にあることを確かめる。生地の上からその形をなぞる。今すぐ逃げ出すのがよい。わたしの足は速くない。けれど日が落ちて辺りが暗くなりはじめても、わたしはソファに座っている。サイドテーブルに載せた彼女の目を見る。そして耳を澄まして待ち受けている。

 雨の日は沼犬が来るから、あたしは柔らかい砂が敷かれた部屋の真ん中に寝かされていたんだよ。沼犬の姿は見えないけど、乾いた砂の上には濡れた足跡が残るから、見張っていれば沼犬が来たことが分かる。沼犬の居場所へ向けて砂を投げつけると、ゆっくり引き下がって帰っていくんだって。そうやって親は子供を沼犬から守る。でもどんなに注意しても、雨の夜に子供の側に誰もいない瞬間はある。大人たちがどんなに強い意志をもっていても、工夫を凝らしても、ある時誰かの子供は沼犬に触られる。たとえば八歳のときのあたしとか。多くはなかったけど、ずっと昔からあの町ではそういうふうにして、子供から何かが盗まれていたの。あの日目を覚ますと、床にはあたしを中心にして、濡れた足跡がアラベスク模様のように残っていた。自分に何が起きたのかすぐにわかった。あたしが体を起こすと左の眼窩に溜まった水が流れ出て、それは涙みたいだった。

 暗い部屋が一瞬明るくなったあと、遠くからかすかに雷鳴が聞こえた。この家の主は一向に帰ってこない。わたしは天井を見上げた。暗がりの中に家を支える梁の輪郭がぼんやりと見えた。ふたたび部屋が明るくなったとき、わたしは梁の上にビーズのように輝く四つの点を見つけた。窓から光がさすたびにその点はわずかに移動していたから、それはこちらを見ている目だとわかった。その目の持ち主は二匹の、あるいは二首の動物なのだろう。この部屋を見ていたのは彼女の目だけではなかったわけだ。わたしは目を閉じた。こうしていれば部屋にある視点の数は元通りになると思った。雷鳴は次第に近づいてくる。雨音が聞こえ始め、部屋はさらに暗くなる。屋根をうつ無数の水滴は音を大きくしていく。この家は雨音に取り囲まれている。わたしは眠りに落ちつつある。
 突然、割り込むように鍵の回る音が聞こえ、続けて扉が開く音がした。こちらの部屋でも空気が動いたように感じた。コートを脱ぐ衣擦れの音がしているあいだに、わたしはポケットからペティナイフを取り出して鞘から抜き、ソファの上で姿勢を整えた。わたしの背後にある黄色いドアが開いた。
「ストーブをつければいいのに」
わたしの姿をみとめたこの家の主はそう言うと、わたしが座っているソファのわきを通り過ぎてしゃがみ込み、マッチを擦り、ストーブに火を熾した。大きな四角いガラス窓の向こうで火が大きくなっていった。その明かりを背に、しばし部屋を見渡したあとで、家の主は床に落ちていたダクトテープをゴミ箱に捨てた。
「目を剥がしたのか」
わたしは家の主に向かって答える。
「持ち主に返す」
「好きにしたらいい」そう言ってそれは肩をすくめた。
 さっきまで彼女の目があった壁はストーブの火に照らされ、ぽっかりとあいた空白を晒している。壁から目が失われたことで、この部屋は決定的に調和を欠いたとわたしは思う。ある意味では彼女の目は正しい場所にあり、しかるべき役割を果たしていたのだ。 「どうしたものかな」
家の主の問いかけに応えて、わたしはナイフを前に出した。
「わたしの目を」
「釣り合っていない」
わたしはサイドテーブルの上にある彼女の目と見つめ合った。彼女の目。ラブリーな目。わたしは立ち上がり、家の主にナイフを握らせた。渡されたナイフの重みを確かめながら、それは首を振ってため息をついた。
「もっと高いナイフを買うべきだったな」
「選べるのならそうしたけれど」
「そうだろうな」
そしてナイフをかまえると続けて言った。「見合う分を貰うことになる」
わたしはハンカチを取り出し、まぶたの代わりとして彼女の目を覆った。雨が屋根を叩いている。わたしの舌が掴まれる。それが最初になる。わたしは目をつむる。梁の上の四つの目がこれから起きることを見るだろう。この部屋は暖かい。雷鳴が聞こえる。彼女の目は何も見ていない。彼女の目。ラブリーな目。

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