ハンマー

 地面を揺らす振動がこの部屋にあるものすべてを揺らしていて、その中にはおれも含まれているしハン魔ー・ディーゼルも含まれている。壁に掛けられたハンマーがガチャガチャ鳴っている。ハン魔ー・ディーゼルは言う。
「今日の午前もひとつ頭を砕いてきたところなんですよね。そこに掛けてある一番端のハンマーはまだ血が乾いてないのわかる? わたしはいつも頭を砕くのに新しいハンマーを使います。ときどきホームセンターに寄って店中のハンマーを根こそぎ買う。一つの頭には一つのハンマー。当たり前だよなぁ!? ルールだよなぁ!? だからこの家を停止させて、一本だけ携えて出かけて、頭を砕いて帰ってくる。エンジンはかけたままだよ。また家を動かしたら、ハンマーを壁に掛けるの。そしたらそのハンマーはもう二度と使わない。六十二本たまるまで壁に集めておく。だからまぁ、あと数日はこのままかな。いま五十八だから。番号の付いたプレートが見えるでしょ。そしたらエンジンを切ってこの家を停めて、長い時間をかけて一本ずつハンマーを交換していく。トラクターだろ。わかるだろ。トラクターだからこの家は。地面を耕して前に進むだろ。そういう話だよなぁ!? ハンマーが耕すよなぁ!? 仕事だろうが!! ときどき夜に、壁からハンマーを手に取って物思いに耽ることがあります。薄暗い灯りの下でハンマーの重みを感じていると、それにまつわることを思い出す。その日の天気とか、道端に落ちていた空き缶とか、すれ違った中学生のカップルは女の子のほうが背が高かったこと、家の外観、ドアノブ、廊下の先の部屋、ハンマーを持ち上げた時のいつもの重み。砕いた頭のことはあんまり覚えていない。砕く瞬間の感触は思い出せるんだけどね。頭を砕かれる前に人はそれぞれなにかを言う。もがきながら叫ぶ人も、力なくささやく人もいる。でも思い出そうとしても、それは言葉ではなく、音程と音量しか浮かんでこないんだよ。全然意味がないよなぁ!? 最後に聞く相手が言葉を雑音として扱ったらなぁ!? でも砕いた感触だけは本当に、鮮明に思い出せる」

 おれはハン魔ー・ディーゼルを知っていた。あいつとおれは仲間だった。その頃はハン魔ーなんて名前じゃなかった。ナツ緒。ナツ緒は腕のいい職人だった。美しい家具をいくつも作った。おれはナツ緒の作った椅子を誕生日にもらった。滑らかで安定していて、心地よくて、なによりもフォルムが美しかった。だからナツ緒の作る家具は、数が少なくて高くてもちゃんと売れた。悪魔にもだ。ナツ緒の作ったあの美しい棚が悪魔に使われ、穢されたせいでおれたちは傷つき、怒りで狂った。
「そんなものを飾るために作ったんじゃないッ」
ナツ緒は泣きながら悪魔にがなり散らした。それを見てヘラヘラ笑う悪魔におれは突進して、地面に押し倒すとそのまま両腕を抑えつけた。ナツ緒は泣きながら悪魔の頭をハンマーで砕いた。
「ぴえん。ぴえん」
そう言うたびにナツ緒はハンマーを振り下ろした。アホらしいと思うか? でもナツ緒は哀しみを表す言葉をそれしか知らなったんだ。おれは肉塊となった悪魔の頭にナツ緒の涙がぼたぼたと降り注ぐのを見ていた。とにかくおれたちはやってのけた。でもそれが罠だった。悪魔は周到だ。ナツ緒の手で自分を殺させることまでが予定通りの手続きだったんだ。悪魔を殺し終わった後のナツ緒はハン魔ー・ディーゼルに変貌していた。おれの元を去ったナツ緖は、トラクター型の奇怪な家を走らせ、血濡れたハンマーで大地に呪詛を混ぜ合わせている。何年もだ。最悪だ。悪魔の目的なんぞ知るか。おれはハン魔ー・ディーゼルを殺すと覚悟を決めた。だからこの家に乗り込んだのだ。

「ナツ緒」おれはハン魔ー・ディーゼルに呼びかける。「もうやめろ」
向かい合った相手は、慣れた動作で手にグローブをはめ、壁に立てかけてあるハンマーを掴んだ。
「仕事だろうが!!」
ハン魔ー・ディーゼルの動きは俊敏で滑らかだ。その動作の中にかつて家具職人だったナツ緖の名残を垣間見て、おれは一瞬反応が遅れる。次の瞬間おれの頭は床の上にあり、何が起こったかわからない。打ち倒されたのか。耳の奥でドクドクと血が脈打つのが聞こえる。それはこの家の振動よりも大きな音でおれに迫り、自分の危機的な状況を知らせる。おれはハン魔ー・ディーゼルの餌食になる!
「なんでわかってくれないの……」
ハン魔ー・ディーゼルの涙がぼたぼたとおれの上に降りかかってくる。
「もうわたし、ハン魔ー・ディーゼルだから。それ以外の生き方できなくなっちゃったから。認めてほしかったよぉ認めてよぉ」
ハンマーが振り下ろされるのがわかる。世界が静かになる。おれは言葉を発しない。せめてもの抵抗だ。だがいつまでもハンマーはおれを砕かないし、世界はマジで静かになっている。この家の振動が止まっている。見上げるとハン魔ー・ディーゼルは不思議そうに辺りをうかがっている。

 そして世界は終わる。

 ハン魔ー・ディーゼルの家が耕した線は巨大な魔方陣を描き終わり、その効果によって世界を変貌させた。螺旋階段状に地面と海が引き延ばされて、端と端が繋がり円環となって、その過程で地殻変動と化学変化が繰り返され、すべての生き物は更新されていまは胎動している。これが悪魔の目的なのか? どんな意味があるというのか。
 この世界にいる生者はおれとハン魔ー・ディーゼルだけだった。この事態の片棒を担いだおれもやはり変貌していたし、ハン魔ー・ディーゼルも変貌していた。おれたちは二人で一つだった。おれたちは槃ボウ・摩ーボウになった。二人合わせて槃摩ーだ。
「仕事だな」おれは半身に言った。
いまだ姿を変え続ける新世界は、寄る辺なく震えていて、おれたちの天気予報を必要としていた。

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