[小説]精神のなんとか
疫病の時代はいつでもあったけれど、人類はそれを乗り越えのだから今度も大丈夫ですよ、と聖バリボル・ハムンクサはおっしゃいます。
「安心なさい」
彼は微笑みます。ですから、わたしはこの五十七歳でトロンとした目つきの善良だが頭の悪い男に反射的に反社会的に素早く手を伸ばし、白髪交じりの髪を左手で掴んで右拳で頬を殴り、殴り、殴る。その動きはまるで『逆襲のシャア』でニューガンダムがサザビーを殴るシーンのようです。それは古いアニメですが、わたしは兄と一緒にアマゾンプライムビデオで観ました。わたしは赦しを請います。暴力は悪であると倫理感が告げているのに止められない、こんな忌まわしいわたしが作品を愉しむことを。しかし作品の素晴らしさは独立したものであり、作品を鑑賞する能力はわたしの人間性と隔たっている。そんなことをまばたきの間に思索しながらわたしは叫んでいます。
「詐欺野郎!」
わたしは髪から手を離し腹を蹴りとばすと、うずくまりつつ後ろに下がったバリボル・ハムンクサに向けてステップして左膝を顔にめり込ませて鼻の骨を折りました。欺瞞と対峙して生まれたアドレナリンが駆動させる憎悪には歯止めがききません。わたしは十四歳で若く過ちを冒します。死ね、殺すと喚くのはティーンエイジャーの特権です。
「詐欺野郎!死ね!」
どうかこの言葉が届いて欲しいと思います。わたしには十一歳上の兄がいます。思春期で性に目覚めたわたしはセックスのことを知ってから、兄との歳の差は避妊の失敗によるものではないかと考えて吐きそうになります。あるいは意図。愛玩品か、子供のスペアとして産んだのではないかという疑惑を抱きます。そうでなければなぜ十一年も経ってから新しく子供を作ったのでしょう。暇つぶしかもしれない。どの理由も最低すぎるので、そのことが頭をよぎると苛立って苛立って仕方ありません。
「人類が疫病の時代を乗り越えたからってなんだよ!」
わたしは横たわり縮こまっているバリボル・ハムンクサの腹を蹴りながら話します。この脚の動きは体育の授業でサッカーを教えてもらったときの応用です。学びは人生を豊かにすると小学校の卒業式で校長先生が言っていましたが、その先生が今足元に転がっている男に似ていたことを思い出してうんざりしてより強く蹴ります。
「それは種としての話だ!死んだ個人の累計を考えろ!その人たちと家族のことを考えろ!」
呻き声の不快さがわたしを駆り立て、その要因の片割れがわたし自身であることがさらにわたしを怒らせ、そんな行為に及ばせたバリボル・ハムンクサの存在が憎しみの熱狂を生みます。
「人類なんて一括りにするな!スペインは天然痘のパンデミックでインカ帝国を滅ぼしたんだぞ!文化も価値観もなにもかも違う存在がいることを均一化して覆い隠すな!」
わたしは兄の部屋にある『銃・病原菌・鉄』という本を読んでいませんが、このような知識があり、兄はそのハードカバーの本をブックオフの百円コーナーで買ったことも知っています。なぜわかるかというと、粘着力が強いせいで爪跡で汚く歪んだまま剥がせなかった「¥108-」のシールが裏表紙に残っているからです。これを取るには値札剥がしスプレーというものを使えばよいのですが、わざわざそんなことをする兄ではなく、彼も買ってから最初数ページをめくっただけで読んでいないしどうでもいいのでしょう。どうしてブックオフはどこの店舗も同じ匂いがするのでしょう。どうして最近は値引きがシブいのでしょう。
「グローバリゼーション!」
わたしはバリボル・ハムンクサを踏みにじります。
「世界は繋がっているんだ!船で、電車で、飛行機で、どこでも繋がる!中国と関係ないところなんてない!スモールワールドネットワークはより速く機能している!巨大資本がそうしたんだ!地球温暖化!グレタ・トゥーンベリ!」
グレタさんのことを考えるとき、わたしはグレタさんより芦田愛菜さんのことを考えてしまいます。サンドウィッチマンと番組をやれるなんてとても素敵だなと思います。アイドルよりずっと好きです。でも芦田愛菜さんは恵まれた家庭の子供だから才能を発揮できたのではないか、持つ者と持たざる者の溝があって、それはマルマルモリモリ、マルは○でゼロのことだから、それが盛り盛りと増えるお金持ち、貧富の差を背負わされた子供たちのわたしは逆側にいるけれど芦田愛菜さんはいい人であってほしいな。なんでこんなことを考えなきゃいけないのでしょう。
「資本主義はクソ!」
そのときバリボル・ハムンクサが足元で
「がふぁっ」
と声を上げました。
ですからわたしは目が覚めたのです。
「GAFAのことですか…?」
バリボル・ハムンクサはうなずくように身を震わせました。彼は最初からわかっていたのです。わたしが世界を呪っていることを。どこかで吐き出さなければならないことを。そのとき自分がその役割を引き受けるつもりでいた…いらっしゃったのです。ですから無知を装ってわたしを挑発なされたのです。
血溜まりが後光のようで、わたしは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出しました。あれは利他主義のことを説いたものだと思っていましたが、糸という辿る道とその先の仏様、それは導きであり後ろを振り向いてはならないという教えなのだとそのとき理解しました。
ですからわたしはバリボル・ハムンクサを殺すことにしたのです。それは全うされなければなりません。なんとつらい仕打ちでしょう。糸を昇るカンダタの気持ちがわかります。見知らぬ場所より慣れ親しんだ場所にいるほうが容易い。彼の落下は自ら望んだものかもしれません。しかしわたしは振り向いてはいけない、先へ進まなければならないのです。最近流行りの八十年代趣味をきっかけに観ることになった『ネバーエンディングストーリー』という映画の何作目かに、振り向いてはいけない谷の道がありました。振り向くのは禁忌なのです。ネバーーエンディン・ストォーーオリーーーーーーーーーオォオオーーオォオーーオォオーーー。欺瞞に満ちた想像力の欠片もない腐った大人を演じるバリボル・ハムンクサの導きの元わたしはその道を歩むのです。わたしは彼の愛を受け善を為さねばなりません。ですから一度彼の元を離れ、金槌を手にして戻る。振るった金槌は確実に血に汚れていきます。『ドロヘドロ』!わたしはグロいものが苦手なので兄が持っている漫画も今やっているアニメも観れません。ですからこれは大変な作業でした。
愛というのは不思議な形で現れます。わたしの愛をわたしはわたし自身の手で作り上げなければなりません。それは譲り受けるだけではいけないのです。バリボル・ハムンクサが示した愛は、それは端的に言って阿呆でした。なぜ十四歳に自分を殺させるのでしょう。もう大人たちはどうしようもない、どいつもこいつもバリボル・ハムンクサだ、とわたしは気づきます。わたしは自分が阿呆になってしまったらどうしようと怖くなります。ですから頑張らなければいけません。ティーンエイジャーでもないのに死ね殺すと喚く大人にも、いつでもスマホでツイッターを見ているような大人にもなってはいけないのです。わたしは探します。疫病の時代でも探し続けます。
愛を。
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