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ラーメンを食べる女

ランチの忙しい時間帯を外すように、開店から程なくして赤いヒールを小さくカッカッと鳴らしながら女が入ってきた。

今日は休みだろうか。体のラインを拾う白の薄手のvネックニットに、細身のデニムで、化粧は控えめ、ゆったりと力が抜けたような空気が漂う。休みと思ったのは、普段からのんびりしていそうというより、肩に力を入れて生活している人が束の間の休みの時に見せるホッとした表情だったからだ。脂でギトギトしたラーメン屋に来る格好としては、少し場違いな気がしたが、女は気にも留めていなかった。

どうやら初めてきた様子で、メニューを真剣に見ていたが、そこに答えは見つからないとばかりに、店内の張り紙を眺め始めた。どこか楽しげな姿は、見た目よりすごく幼く、ワクワクしながら料理を待つ子供のようで、そのギャップに釘付けになる。定番の醤油ラーメンを頼むと、スマホに目を落とし、クスッと笑うとスマホを鞄に戻した。両肘を立て、重ねた手の上に顎を乗せると、また楽しそうに厨房の方を眺める。マスクを外して、冷たい水を流し込んだ。その時初めて、女が靴と同じ色の口紅を塗っていると気がついた。

ラーメンを運ぶと、首を少し右に傾けながら「ありがとう」と微笑んだ。髪とゴールドの大ぶりのピアスが少し揺れ、なぜかドキっとしてしまう。

左手で持つれんげをスープの中に沈ませる。女は掬い取ったその一杯をゆっくりと口の中に流し込んでいった。体の細部へスープが染み込んでいき、満足そうな表情を浮かべる。箸でトッピングのネギを混ぜ合わせるようにしながら、奥に眠る麺を探り当てる。先ほど口に含んだスープはもう口の中にはない。焦りと昂る気持ちを抑えつつ、最初の一回分と決めた「セット」を箸で掴み、小さく深呼吸して、真っ赤な口を小さく開けた。啜る音を控えめに立て、途切れる事なく麺がどんどん女の口に吸い込まれていく。ああ、そうか、俺のものを含む時のアイツの表情に似てるんだ。恍惚の表情はどこか苦しそうで、どこか背徳感も滲ませていた。女が好みそうな野菜はせいぜいネギぐらいしかなく、それでも抗えない本能が箸を止めないかのようだった。

時折、横の短い髪が前にハラリと落ちそうになるが、ラーメンにつかないように、絶妙な間合いで髪をかき上げる。あまり何度もしては品がないが、かといって髪を束ねるのも気合いが入りすぎるというところで、髪を下ろしてもいいギリギリのラインを保っているかのようだった。効率や機能は官能の真逆のところに位置する。

ゆっくりゆっくりと。麺を入れたら、スープが欲しい。スープがなくなる前に、早く麺を入れたい。そんな焦る気持ちを悟られないように、そっと。ふしだらなほどの欲求を凛とした姿勢と穏やかな表情で隠し、何度も麺とスープを往復する。

コップは次第に大粒の汗をかき始めた。冷水は女にとって、理性を保つために必要で、汗をかこうと中の水さえ無くならなければ十分だった。

食べ進めて火照る体を、黄身がとろりと落ちる味玉と片側だけしんなりしてきた味付け海苔で冷ます。そしてまたスープを口に含み、うっとりする。「初めて」の状態が一番興奮することを女は熟知しており、冷水で口の中の脂を流し、またラーメンと向き合う。緊張感のない関係は単なる惰性。時間と共に麺の硬さも僅かながら変化し、女自身もまた微かに変化しているのだった。

麺も残り僅かになった頃、この日一番大きな口で、チャーシューを取り込む。「これが欲しかった」と言わんばかりの表情はどこか下品でもあり、それが余計に官能的だと思わせる。一本も残らず麺を食べ終えると、名残惜しそうに、れんげ一杯分だけスープを口に含んだ。安堵の小さなため息をつく。

「ごちそうさまでした」

*全て想像です。


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