24の調によるトルコ行進曲変奏曲を観て
モーツァルトのトルコ行進曲については、もはや説明する必要はあるまい。全ての人類にとって常識となっている定番のピアノ曲である。
付け加えて言うことがあるとすれば、オスマン帝国軍の軍楽は当時流行していて、この曲の独創性はともかく、トルコ行進曲自体は流行曲としての側面を持つということ。
トルコ行進曲を変奏曲にする、というのはかなり挑戦的な試みだ。有名な曲を変奏する、ということは無名の作曲家がパブリシティを得る上でむしろ常套手段と言えるが、余程聞き応えがなくては、競争に勝てない。この辺り、トルコ行進曲の流行曲としての側面とも重なる。
そして、この変奏曲には「原曲の理解を深くする」という固有の価値があり、聞き応えがある。
まず驚かされるのは、そもそも原曲自体が高密度に転調している、という点だ。特に、短調から長調へのドラスティックな転調がなされている。曲調のドラスティックな変化自体はモーツァルトのオハコと言えるが、それを「トルコ風byモーツァルト」の曲想の中で無理なく実現しているところがすごい。
おそらくモーツァルト自身は曲想を統一しようなどとは考えておらず、後のリスナーがそこに一個のコンセプトを見出しているにすぎない。モーツァルト自身はむしろ一曲の中に逸脱を図っていた。
変奏曲の作曲者(演奏者)はさらに変化を拡張し、24の調へと展開している。
ここで一つの問いが生じる。この曲は、無調音楽ではないのか?
常識的な解釈としてはあくまで、調性を複数集めただけであって、無調音楽とは言い難い。調性が確定する前に転調する、というのが無調音楽の条件であるとすれば、なるほどこの変奏曲は調性が確定するまで転調を避けている。
だが、そもそも調性はどこで確定するのか?そこに客観的な基準など存在するのか?音楽の聴取体験に客観的な基準は果たして必要なのか?
音楽の聴取体験を科学的に定義することが20世紀音楽を豊かにしたとすれば、20世紀の音楽をつまらなくしたのもまたその科学的なアプローチだ。
12音技法というものが広義には調的中心の無効化にあるとすれば、この曲の中心はやはり危機に晒されている。
重要なのは逸脱へのモチベーションは原曲の時点ですでに存在した、ということである。モーツァルトがトルコの軍楽に題材を採ったことや、彼が調性から逸脱しようとしたことは、全て彼がまっとうな現代音楽を書こうとしたことによる。
この変奏曲は、モーツァルトの意図をむしろ率直に継承したものと言える。
モーツァルトのDNAを敷衍したこの変奏曲が明らかにしたもう一つの真実。それは、「ピアノ音楽とはショパンである」ということだ。
この動画を見た人は、途中から音楽がショパンの語法によって展開していることに気づくはずだ。ピアノとは、その音色、出力システム、歴史的な文脈全てによってショパンに到達するようにできている。
人は、危機にあってそこからの逸脱を図る。創作とは不断の危機を自らに対して起こし、そこからの逸脱を誘うことで成立する。だからモーツァルトはウィーンでトルコの軍楽を作曲し、ショパンはパリで革命を謳った。
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