ドラクエ4リメイク
YouTubeでドラクエ4の自主制作のリメイクを見た。
第5章の冒頭をCGで映画化したもので、正直感動した。
決して、高尚な映像ではない。
ハリウッド映画のイディオムを実直に踏襲した感じで、この感動は世代的なものだと思う。
音とか、間とか、セリフとか、とてもよくできている。
自主制作映画「DRAGON QUEST4」
RDQ
https://youtu.be/cUN1MyInDYs?si=prhNOH_Swfo8juxU
・剣を練習してくれる兵士が、死ぬ間際にいつもと同じセリフを言う。
・お母さん(役の兵士)がテキパキと指示を出している。
・「栄光のために!」というセリフから、彼らの覚悟が見える。
・父親が一撃で殺される不条理さ。
など、胸熱な演出がぐっとくる。
シンシアがモシャスで影武者になるところなど、フリが効いていて、原作の深さを初めて感じた。
僕はドラクエ5からやったので、ストーリーが大体しかわからない。
象徴的なシーンにピンとこないわけではないが、断片的にしか覚えていない。
登場人物は知っているし、曲もよく知っている。
それでも第5章がどのように展開して、デスピサロの討伐に至るのかは全然知らない。
そこで、以下の音源にあたることにした。
当時、こんな贅沢なコンテンツがあったことを、僕は知らなかった。
CDシアタードラゴンクエスト4
1
https://youtu.be/FnKLSd6dl_s?si=0in3YZygmPPd1aF3
2
https://youtu.be/PMjGTGeHUuk?si=4PQWVhG8Dfhc9aFS
3
https://youtu.be/GK4IA-4vbSM?si=VS4H-igcY6B-AwcO
これで、あの「村を焼かれるシーン」からデスピサロ討伐までの物語を履修することができた。
その上で、僕なりにドラクエ4を再構成したいという誘惑に駆られた。
以下は、第5章の解釈と演出について、RDQの自主制作映画のクオリティをそのまま結末まで持っていくと、どういうコンテンツになるのかの妄想の記録。
【主人公キャラクター】
まず、主人公のキャラ設定。
これは、3つのパターンが考えられる。
1、オリジナル=CDシアター版の、能天気なヒーロー
2、村を焼かれたことによる鬱系のバイオレンスなヒーロー
3、そのどちらでもない、崇高なヒーロー
1について、ゲームをするときはこれでいい。
強烈な過去は持っているが、作品自体は能天気に遊ものだから、魔族をやっつけるための動機付けとして成り立っていればいい。
だが映画としては物足りない。採用できない。
ドラクエ4の勇者の生い立ちは、最近のアニメのパターンでいけば、2のような、残酷で狂気的な主人公が描きやすい。(チェンソーマンがそうか?)
これはこれで、十分魅力的なコンテンツになるが、いささか飽きた。
「村を焼かれた!もうどうでもいい!全部破壊してやるぜ!」
強烈な過去が人間形成に暗い影を落とすタイプのキャラ設定は、理に適い過ぎている。
現実の人間はそんなに単純か?
僕は、この主人公のキャラクターは、3のような、不幸な生い立ちにも関わらず、力強い使命感に満ちた魅力的な人物として描くべきだと思う。
彼は、村を焼かれたことで、絶望する。生きる気力を失う。
だが、冒険の中で彼は自分を見出す。
村の仲間が命懸けで自分を守ろうとしたこと、そうして生き延びた自分の命の使い道を、使命感へと昇華させる男。
これは、1のようなただ前向きなヒーローとは違う。
彼は、一旦絶望し、なんなら自殺まで考える。
だが、絶望から回帰する。
そこには、何もかもを失って自分の命すらどうでも良くなった人間の、絶望の向こう側の使命感がある。
勇者として、仲間の死を無駄にしないこと。
自分の身に起きた実存を揺るがすような不条理を、「お前はどう生きるのか?」という問いに置き換え、その後の人生全てをもってその問いに答えていく強い人間を描くべきだ。
【バトルのあり方】
次に、バトル。
この世界では、魔法があり、また剣や格闘を用いたバトルシーンがある。
「バシン」といって、あとはダメージが数字として計上されるゲームの世界では気にならないが、実際に想像しようとするとどうしても無理がある。
大軍に対して、どう向き合うのか?
肉体の脆さは、火炎などの魔法に対してどう反応するのか?
人間の織りなす物理攻撃は、魔法攻撃や猛獣の俊敏さに到底かなうとは思えない。
そこで、バトルシーンのイメージを、魔法を中心としたものに置き換える。
勇者は、魔法の運用のセンスにおいて天才的な才能を発揮する。
例えば、ドラゴンの攻撃は「小さなルーラ」を用いて回避する。
相手が爬虫類であることを利用し、ヒャドを使って動きを封じる。
大軍の敵にはイオナズンで地盤を沈下させるなど、土木系の効果を発揮する手段として魔法を用いる。
実質的に魔法は、現実の戦争における戦力の量と、その運用のアナロジーだ。
勇者が剣を振るうことはほぼない。彼は戦い方を考え、指示する。
RDQの自主制作映画は、そういう示唆に富んでいる。
【アリーナ】
アリーナのあり方も、少し工夫しなければならない。
彼女は王女なので、育ちがいい。そういう演出はいる。
決定的な階級の違いというものは、出すべきだろう。
そのほかのキャラクターは、要所要所でアリーナに対して敬意を表するべきだ。
そうしなければ、封建社会を舞台にする意味がない。
ただ、勇者だけが、その血統においてアリーナに匹敵する高貴さを有する。
アリーナと対等に話せるのは、本来勇者だけだ。
【魔族】
原作でも、魔族は人間と違う、だから躊躇なく殺していいことになっている。
これは、哲学的に問題がある。
たとえ魔族であっても、相手が言葉を操る意識をもった主体である以上、倫理的に尊厳を認められるべきだ。
だから、彼らを殺す際は、それなりの罪悪を覚悟せねばならない。
この点、ドラゴンクエストをはじめ、この手のコンテンツは無邪気に魔族を殺しすぎる。
デスピサロは魔族の王子で、人間に戦いを挑んでくる。
将来脅威になる勇者を大きな勢力になる前にたたくというのは、十分に合理的な戦略的振る舞いと言える。
主人公たちが戦うのは、相手が魔族だからではなく、安全保障のため。
実は、これは民族紛争以上のものではない。
そのつもりで、この戦いを描くべきだ。
だから、主人公たちには、侵略者に対する苛烈な抵抗と同時に、魔族に対する寛容な姿勢が求められる。
【エスターク】
エスタークは、機械兵器として描く。
ライデインが効くのも、電子機器だから。
巨大戦艦のような、圧倒的な戦力差を作り出すような兵器として描く。
デスピサロがエスタークにこだわるのは、戦局を決定する最大のファクターとなるからだ。
主人公たちがエスタークと戦うとき、なぜエスタークを倒す(破壊する)ことができたのか。
それは、弾薬が補充されていないからである。
もし、エスタークが万全の準備をして主人公の前に現れていたら、圧倒的な火力の前に虐殺されていただろう。
これに関連して、武器商人のトルネコは、ある時点で銃火器を装備する。
デスピサロとの戦いには、マシンガンをもって参戦する。
【デスピサロとの戦い】
憎しみをエネルギーに変えることができれば、勇者とデスピサロは互角の戦いをするだろう。
勇者は村を焼かれた。
デスピサロはロザリーを殺された。
だが、この物語は勇者を主人公とする。
CDシアターでは、このバトルのシーンになると途端に精彩を欠く。
なんというか、勝つ理由が「だって、勇者は主人公なんだもん」なのだ。
仕方がないといえば仕方がないのだが、白けてしまう。
勇者が勝ち、デスピサロが負ける哲学的な妥当性が欲しい。
恨みに恨みで対抗するわけにはいかない。
基本的にオリジナルの線にそって、デスピサロを描写する。
その上で、結末のあり方に手を加える。
原作によれば進化の秘法とは、生物をエネルギーによって強化する方法だ。
デスピサロは、これによって化け物になっている。
もはや、彼の意識はない。
増幅され過ぎた彼の意識は、個としての視点を失っている。
ただ、憎しみだけが彼を駆動している。
デスピサロの残された個性は、ロザリーを殺された恨みだけだ。
この強敵に対抗するため、勇者は一計を案じる。
まず、トルネコのマシンガンおよび手榴弾を用いて物理攻撃を与える。
そして、逃げる。(8回逃げる。)
その間に、勇者はクリフトに命令する。
「クリフト、生物学的なザラキを使う。」
「は?」
「この化け物は、金属ではなくタンパク質で構成されている。エスタークの時のような電撃や物理攻撃では倒せない。奴が死にいたるウィルスを合成しろ」
「そんな!いくら僕でも間に合わないよ!」
「やれ!さもなくば全滅だ!」
追いかけるデスピサロ。
追い詰められる勇者。
そのとき、デスピサロの後頭部に大剣が振り下ろされる。
膝をつくデスピサロ。
追いかけていたのは、いつの間にかモシャスで勇者に化けたマーニャだった。
続いてもう一撃、勇者の大剣が振り下ろされる。
首から背中にかけて、致命的な割れ目がぱっくりあいたデスピサロ。
もう一撃、もう一撃と振り下ろされる大剣。(『地獄の黙示録』より)
やがて、デスピサロは息絶える。
そして、第二形態。
「いよいよだ。」
腹に顔が出てきて、より抽象的な恨みの化身となったモンスター。
デスピサロの顔はもはや恍惚としてまるで仏のよう。
「どうだクリフト?」
「だめだ!手当たり次第やってるが、すぐに免疫が作られる!」
「クソッ」
悪戦苦闘も虚しく、全員このモンスターに取り込まれそうになる。
敵の触手が突き刺さり、血流が付け替えられる。
泣きべそをかくクリフト。
「ごめん、僕が不甲斐ないばっかりに」
全員が絶望しかかった時、勇者が叫ぶ。
「みんな、自分の大切な者を思い出せ。」
それぞれ、自分の大切な人を想う。
ライアンはホイミンを、アリーナは父王を、クリフト、ブライはアリーナを、トルネコは家族を、マーニャとミネアは亡き父を。
勇者は、一人デスピサロのいるところへ向かう。
「危ない!」
勇者の心臓を、触手が串刺しにする。大量の血流が敵に流れ込む。
そして、勇者はデスピサロを抱いて囁く。
「彼女のもとへ帰ろう」
デスピサロは、ロザリーを想う。
最後の瞬間。
彼らは、恨みから解放され、自分を取り戻す。
恨みによって駆動されていたモンスターから、大切な人を想うキャラクターたちは分離される。
タンパク質のモンスターの肉の中から、傷を癒やされたデスピサロが救い出される。
モンスターに取り込まれる過程で傷も塞がっている。
そして、勇者は死ぬ。
やがてモンスターが壊死しはじめる。
クリフトがつぶやく。
「拒絶反応が起きたんだ・・・」
勇者は、一人、天空の血を引く存在。
彼だけは血液型が違った。
彼が最後に思い描いた大切な人。
それは、シンシアではなく、デスピサロだった。
「真の勇者は、もっとも恨むべき人間をこそ愛で包む。」
全員が助かる中、勇者だけが死んでいた。
パーティの仲間は決してデスピサロを許さないだろう。
彼らは勇者の思いを全て理解できるわけではない。
彼らは、所詮一般の人間なのだ。
だからこそ、勇者のパーティのメンバーである意味がある。
泣きながら、勇者の遺体を馬車に運ぶ一行。
倒れているデスピサロ。
死んだように見える。
「デスピサロはどうするの?」
「首だけもっていくか?」
「悪趣味だ。そんなやつの顔、これ以上見るのはごめんだ。」
「我々は武功のために戦ったわけじゃない。」
「魔族の死骸なぞ、打ち捨てておけ。」
「カラスか犬に食われればいい」
その言葉を素っ裸の姿で聞きながら、死んだふりをして生き延びることに恋恋としている自分を見つけるデスピサロ。
情けなさで涙を流す。
【死者の復活について】
原作のエンディングでは、勇者は死なず、シンシアも復活する。
でも、そうすると物語が途端に軽くなる。
大切なのは、ある人物の死が、残されたものに問いを残し、たとえ暗い過去となったとしても、生きる意味と活力を生み出すということだ。
デスピサロは、自ら犯した過ちを背負わねばならない。
勇者の村を焼き、野望の過程でロザリーを失い、勇者に敗北し、間違った生還を果たす。今後の人生は、生き恥と言えるだろう。
そこから、新しい物語が生まれる。
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