亜麻色の坂の途中で(一)

 年の瀬の冷気が袖広のダウンの内側に急速に吹き込み、わたしは思わず左手をポケットにしまった。金属製のカウンターは触れる度に、わたしの右手から熱を奪っていった。遠くの方からぼんやりとヘッドライトが現れては、わたしの後方へと過ぎていく。それは波の満ち引きのような間隔で訪れ、足先を海水が撫でるように、肩の辺りまで伸びた襟足を少しだけ浮き上がらせた。
 交通量調査のアルバイトは2年前に始めた。それまではいくつかのアルバイト先を転々としていたが、この仕事を始めてからは特に問題もなく続けられていた。不定期で他のアルバイトをすることもあるが、それはたまに急なお金が必要になるときくらいだった。
 基本的には空いている依頼にその都度申し込みをかけて、依頼が確定すると、当日朝早くに最寄りの駅に集合する。普段から生活リズムには気をつけているので、いつもより少し早く起きることは、むしろ日常におけるちょっとした心地よい変化という程度だった。
 同僚、というべきか、二人一組で一緒に働く人たちともなんら衝突は起こらなかった。というか、そもそも会話をすることが少なかった。それでもたまにする会話は、いつも父親と同じくらいの年齢の男性を相手にすることが多かった。何度か一緒になった 60歳くらいの男性は、寒い時期になると必ず、左肘の綿が飛び出ているベンチコートを着て、缶コーヒーを差し入れてくれた。ちょうどわたしと同じくらいの歳の娘がいるらしく、何度も繰り返し聞いた話題の途中、「あいつ大学を中退しやがってさ︙︙」というタイミングでいつも、右奥に光る金歯がちらりと見えていた。
 しかし今日の相手はめずらしく、少し鬱陶しい人だった。このアルバイトに対しての愚痴を、わたしに全く包み隠すことなく吐き出していた。たまに様子を見に来る社員の前ではいくらか姿勢をただし、しかしそれが済むとまたすぐにパイプ椅子に体重を全てあずけるようにだらしなく座り始めた。
「全然車なんか通んねえじゃんかなあ。だいたいこんな調査なんのためにやってんだよ」
 今後の交通路開拓や渋滞改善のため、あるいは企業が新規店舗の出店先を検討するためなど、その使用用途が多岐に渡ることは、登録会社の説明会でその男性も承知しているはずだった。
「なあ、あんたも思うだろ、なんでこんなことやってんのかなあって。なあ、思わないか?」
 もう何度も話しかけられていたわたしは、終始その問いかけを無視し続けた。終いにその男性はタバコを吸い始め、疎らな車通りに向かって威嚇するように煙を吐き出していた。
 わたしはこの仕事が嫌いなのではない、この男性が嫌いなのだと思った。しつこく話しかけてくる男性を、わたしは気にかけないようにした。フードを被り、視覚と聴覚をできるだけ目の前を走り去る車のほうに向けようとした。わたしは男性の存在を遮蔽することにほとんど成功した。しばらく何も考えずに車の数を数え続け、そしてその単調な作業に集中し切っていたわたしの右手はだんだんわたしの意識からは乖離して、わたしは瞼が重くなる感覚を虚ろに感じ始めていた。
 
 破裂するような短いクラクションの音と、金属や石が潰れて粉々になるような音がほとんど一瞬の塊として、わたしの目を覚ました。振り返ると、先ほどまで踏ん反り返るようだった男性と彼が座っていた椅子はその場から消えて、暗闇に紛れるような黒いミニバンの潰れた前方と一緒くたになり、よく判別がつかなかった。そういえばこの辺りには街灯が少なかった。わたしの視線の先に動くものはなく、冷たい風が鼓膜を絶え間なくくすぐるように刺激していた。
 わたしはケータイを取り出し、すぐに電話をかけようと思った。しかしふとわたしは、登録会社へかけるか、119番へかけるかを迷った。目の前の状況をもう一度確認し、わたしは寒さと恐怖に怯える親指を必死に動かして、ボタンを3回押した。
 しばらくして救急車が到着した。数人の隊員は通報したわたしの存在を確認してからすぐに、車体の原型を辛うじてとどめているミニバンの方へと向かった。隊員は卒なく作業をこなしているような様子だった。
 わたしはもうそれからパイプ椅子に座ることはなかった。パイプ椅子のほうを見ることもしなかった。隊員のうちの一人がわたしのところへ来て、会社へと連絡するように伝えてきた。わたしは言われた通りに電話をかけるため、ケータイのメールボックスから登録時に自動返信されていた一通を開き、書かれている番号に発信した。
 警察と会社の人間が到着したのはほとんど同時刻だった。警察は救急隊員と同様かそれ以上に落ち着いている様子だった。会社の人間は現場の状況を改めて、徐ろにその表情を強張らせた。会社の人間がそれほどに感情を吐露しているのを見るのがわたしは初めてだった。会社の人間はわたしに何か助けを求めているようにも見えた。わたしは助ける手段を知らなかった。
 
 翌日の昼頃、わたしは会社へ来るように呼び出された。会社を訪れるのは2回目だった。そこでわたしは会社の人間と一緒に警察から事情聴取を受けた。現場の状況からも事件性は見受けられなかったそうで、それはいわば形だけのやりとりだった。ミニバンの運転手の遺体からは高濃度のアルコールが検出されたらしかった。会社の人間の表情は、またいつものような、穏やかとも冷静とも、あるいは無関心とも取れるような平たいものへと戻っていた。
 警察の取り調べが終わる合図に、会社の人間はそのまま頷き、そして私の方を向いてもう一度頷いた。わたしの役目は終わり、わたしはそのまま帰路へ着いた。
 やや遅めの昼食はいつもと同じように、冷凍庫からコンビニで買ったパスタを取り出し、電子レンジにかけた。あと十数秒で温め終わるというところで、空気孔から勢いよく蒸気が抜ける音がした。トマトソースの匂いが電子レンジの外に仄かに漏れてきた。
 わたしはもう交通量調査のアルバイトをすることができないだろうと思った。わたしにはもうそれを続ける勇気がなかった。
 わたしは高校の同級生が2年前に亡くなったことを、当時友人づてに聞いたことを思い出した。その死と今回の事故は全く関係のないことだった。しかしそれでもわたしはその死について考えざるを得なかった。その同級生に申し訳ないと思った。わたしはその同級生の下の名前をいつまでも思い出せなかった。
 
 あれから2週間ほどが経ち、唯一持っている口座には多く見積もっても2ヶ月暮らせるほどのお金しか残っていなかった。いや、それは本来のわたしにとっては充分すぎるほどの預金であるはずだった。交通量調査のアルバイトができないわたしは、もはやわたしではなかった。
 冬至が過ぎても、またまだ陽が落ちるのは早かった。わたしは着慣れたコートを羽織り家を出てコンビニへと向かった。左手首のボタンがほつれているのは、あの金歯のおじさんが着ているものとさほど変わらなかった。
 カップそばと、適当な缶チューハイを2つほど買ってコンビニを出た。家にはまだ充分なお酒が残っていることを思い出して、歩きながら、2つのうちの1つを開けた。
 テレビを点けてチャンネルを紅白歌合戦に変えた。小さい頃は演歌歌手ばかりで親が見ていたのをなんとなく惰性で見ていた記憶があるが、今は今でアイドルばかり出ていてよくわからない。とはいえ他のチャンネルは格闘技やら、やたらに長いバラエティ番組やら興味のないものばかりで、やはりわたしは惰性で紅白を見ていた。
 11時45分になり、番組が終わった。わたしは台所に立ち、小さめの鍋に水を張ってお湯を沸かし始めた。乳白色の鍋の底から、ぶくぶくと大きな泡が沸き立ち始めた。コンビニで買ったカップそばを半分ほどまで開けて、お湯を注いだ。11時54分だった。
 11時57分、カップそばが出来上がった。冷蔵庫から先ほど買ったのとは別の、飲み慣れた缶ビールを取り出した。すでに箸を取り上げているわたしは、なにかに抑えられるかのように、その手をじっとカップそばの容器に添えていた。チャンネルはそのままにしていた。
 除夜の鐘を鳴らす映像が映し出される。年が明けた。窓の外では誰が打ち上げているのかわからない大きな花火の音が、2、3発、重く響いた。一すすりのそばはわたしの喉の奥のほうで、年を越した。
 わたしは無宗教で神様を信じていないから初詣には行かない。仮に神様がいるとして、あれだけの人数の願い事を一度に聞くのは大変だろうと思う。それになぜか正月に限っては、学業成就を売りにしている神様であっても恋愛相談に乗らなければならなかったりする。わたしはすっかりふやけたトッピングの小さなかき揚げを、箸でかき混ぜて溶かした。
 そばをすすり終え、ビールも飲み終え、別に惜しかったわけでもないが、空いた缶を2、3回余計に傾けた。わたしはギターなど弾いたこともないが、家にギターがあれば良かったと思った。ピアノだと大きすぎるから、やはりギターがちょうどいい気がする。もしギターが弾けたら何を弾こうかと、いくつか曲を思い浮かべてみた。クリスマスソングばかりが思い浮かび、わたしはまだ去年のうちに取り残されているような気がした。それからすぐにわたしは布団に入り、元日の夜明けを待った。

 わたしの正月休みは、大抵の人のそれよりも長く続いていた。年末からそのまま延長線を伸ばしたように寒さは酷くなり、わたしは毎日布団にくるまる生活を続けていた。昼過ぎになると先月のバイト誌をまた取り出し、適当なページに折り目をつける。何度も開閉しているうちに、二重に折り目がついているページもあった。
 今朝は隣が少し騒がしかった。新しい住人が引っ越してきたようだった。あまり大きな家財道具を持ち込んでいる様子はなかったが、ところどころ錆びついて踏む度にタンタンと嫌な音が鳴る階段を、その人は何度も上ったり下りたりしていた。
 わたしはその人が階段を上ってくるタイミングを見計らって、家を出た。狭い通路ですれ違うときに、その人は小さく会釈をした。数歩進んでからわたしが後ろを振り返ると、その人がドアを閉める手が少しだけ見えた。
 わたしはそのままコンビニへ向かい、新しいバイト誌を買うことにした。坂を下りたところの道路沿いにある小さな公園には、緩やかな滑り台と、パンダの乗り物が一つずつあり、いつもどちらか一つは使われていなかった。ちらと見てみると、女の子が一人、滑り台を逆から登っていた。
 コンビニから帰り、アパートの階段を上ると、ちょうど隣の扉が開いて人が出てきた。階段を上りきる前のわたしの視線は一番上段の縁をかすめて、それが誰なのかすぐにはわからなかった。ゆっくりと向こうの顔がこちらを見下ろし、それが先ほどの彼だということを認識した。
「隣に住んでいる田辺です」
「あ、ああ。どうも」
 彼はコートのポケットに手を突っ込んだまま、それが彼の元来の猫背なのかあるいは少し気を遣った会釈なのか、そのまま体を竦めるようにして階段を下りていった。彼の後ろ姿が点々と散らばる周囲の通行人に馴染んでいくのを、わたしは階段の一番上からぼうと眺めていた。彼の家の玄関には、真新しい表札で伊藤と書かれていた。
 夕飯の支度には、久しぶりに棚の奥から鍋を取り出した。少しほこりが溜まっているような気がしたので入念に水で流し、均一に切りそろえた野菜や魚を並べて、スーパーで買ってきた出汁を注いだ。カセットボンベはまとめて買ったものが鍋を置いていた棚の更に奥にしまわれていた。
 夜になっても、隣の家には頻繁に出入りがあるようだった。何かを話している様子はあるが、聞き耳を立てても何を話しているかまではわからなかった。わたしは鍋が干上がらないようにこまめに水を足した。出汁は薄くなっていたが、野菜や魚の旨味が移って、また違う味へと変わっていた。いつもより多くお酒を飲んでいたせいか、わたしは日が変わる前に寝てしまった。
 翌朝は外が暖かかったので散歩に出かけた。坂を下ったところの公園、昨日とは違う女の子が滑り台で遊んでいた。わたしは空いたパンダの遊具に跨り、有り余った足ではその遊具を本来のように揺り動かすことができないのをつまらないと思った。
「滑り台で遊ぶの楽しい?」
「うん、楽しいよ。お姉さんはそれ楽しい?」
「うん、楽しいよ」
「あ、そうだごめんね、あんまり知らない人と話しちゃいけないってお母さんから言われてた。ここで話したのは内緒ね」
 それから間もなく母親らしき女性が現れて、彼女の手を半ば強引に引きながら帰っていった。2人が曲がり角に消える直前まで、女の子は「内緒ね」と言ったときと同じ表情を残していた。
 正午を過ぎる少し前に家に帰り、昨日買ったばかりのバイト誌を開いた。先月号には載っていなかった求人を入念に探して、それら一つひとつに蛍光ペンで印をつけて、ページの角を折った。作業は滞りなく進んだ。蛍光ペンで印をつけてページの角を折るアルバイトがあればいいと思った。
 作業が一段落して、早速わたしは印をつけたうちの一つの会社に電話をかけた。合成音声の自動応対メッセージが流れた。一応わたしは0番の「その他の要件」にアルバイト応募の旨を残しておいた。それから間を空けずにわたしはいくつかの会社に電話をかけた。自動応対の会社もあれば、雑誌に書かれている要項と実際の内容がかけ離れているものもあった。
「お電話ありがとうございます。テレホームコミュニケーションの佐々木がお受けいたします」適度なふくよかさを備えた女性の声だった。
「アルバイトの募集を見て電話しました」
「アルバイトの募集ですね、かしこまりました。コールセンター業務への応募ということでよろしいでしょうか?」
「はい」
「承知しました。そうしましたら、一週間後目処に面接のほうさせていただけたらと思いますので、ご都合の良い日時を3つほどお教えくださいますでしょうか?」
「えっと、平日の午後ならいつでも大丈夫です」
「かしこまりました。ではこちらのほうで日程決めさせていただいて、後ほど折返しご連絡させていただきます」
「ありがとうございます」
「はい、よろしくお願いいたします。失礼いたします」
 手帳を開いたのは電話を切った後だったが、記憶していた通り、平日の午後に予定は入っていなかった。どの曜日でもいいから、何か予定を入れたい気持ちになった。火曜日の欄に「11:00 買い物」と書いておいた。
 わたしは近くの喫茶店へと向かうために家を出た。わたしが階段を踏む音は、彼のそれよりも軽快で、少し高音の余韻が目立つような響きだった。公園があるのとは逆の方角へ坂を上り、数十メートル歩いたところで向こうの街並みが見える。こちら側の鉄塔から、いくつか立ち並んで向こう側の鉄塔へと繋がり、それは向こうの街で一番背の高い構造物だった。わたしは送電線に沿わせるように視線を何度か往復しながら、しばらくその街並みを眺めていた。わたしの立つ道路の向こうから、小さい影が少しずつ大きくなりながらこちらへと近づき、それはいつか公園で見たことのある女の子だった。
 わたしは彼女とすれ違い、坂を下り、目当ての喫茶店へと向かった。喫茶店のある通りへ出ると、視界に映る十数人の通行人が、それぞれの方向に浮遊しながら互いの周囲へと引き寄せては離れるように、何かそのままの慣性に基づいて動いているように感じられた。わたしは最も重力の強くかかるところで、しばらく動けずにいた。靴底がじわりじわりと潰れていくような気がした。
「あ、田辺さん、でしたっけ」
 きちんとした声を聞いたのはそれが初めてだったし、それに彼は思いのほか背が高かった。後ろから声をかけられたわたしは、落とし物を拾うときのように、なぜか少し屈むような格好になりながら彼のほうを振り返った。
「あ、すいません急に声かけちゃって。隣に引っ越してきた伊藤です。よろしくお願いします。この間ちゃんと挨拶できなかったんで」
「ああ、いや、伊藤さん、よろしくお願いします。田辺です」
「この後どこか行かれるんですか?」
「そこの喫茶店に」
「本当ですか、僕もちょうど行こうかなと思ってたんですよ。この辺りどんなお店があるのかなって、いろいろ探してて」
「そうなんですか、あ、もし良かったら一緒に行きますか?」
 そのような誘いをかけたのがわたしは初めてだった。それだけの言葉を言うのに、肺の中に溜まっていた空気をすべて使い切るような感覚があった。彼の「いいですよ」という返事を待つ間、わたしは一度ゆっくりを息を吸った。少しだけ体が軽くなるようだった。

(続く)

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