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「何者かになりたい」という思いはいつか希望の光になる

だれもが「何者かになりたい」


先日、bosyuさんの記事を見てふと思った。人は誰しも「何者かになりたい」のだろうなと。

気づけば、歴史上の偉人や有名人に憧れ、そこに近づこうともがく人たちの姿をたくさん見てきた。

それに僕自身もそんな風にもがく人のうちのひとりだったように思う。
「意識高い学生(笑)」という言葉に象徴されるように、ジョブズやザッカーバーグに憧れる大学生が多い時期でもあった。

あと、完全に偏見だが、意識の高い大学生は坂本龍馬と高杉晋作になりたがりがち。
日本を洗濯したくなりがちだし、「おもしろき こともなき世を おもしろく」の句が好きになりがち。

僕は何者かになれなかった


結論から言ってしまうと、「何者かになりたい」と思っていた僕は何者にもなれなかった。

NPOで非常勤職員になり、同世代の大学生たちと一緒に仕事をこなしながらも、職員として事業部のマネジメントをする。
そして、同世代の大学生たちの育成のためのメンタリングもする。

「マネジメントを完璧にこなせる人間にならないといけない」

そんな焦りが常に僕の脳内にはあった。自分でNPOを立ち上げてからも似たような状況だった。

「すべてのことをどうにかできる自分にならないといけない」

こう思い続けてがむしゃらに働いた。
そんな焦燥感とは反面に、僕の体調はどんどんおかしくなっていった。

▼実際に起きた症状
・布団に入っても寝れない
・寝ててもうなされて目が覚める
・仕事のことしか頭になく、他のことに気力がわかない
・仕事をするのがつらい

焦燥感と責任感にかられ、夜中の2時や3時まで仕事をしていたり、適切に休む時間を取らなかったことなどが理由だった。

でも、常に根底にあって僕を動かすのは「何者かにならないといけない」という思いだった。

僕は何者になりたかったのだろう。

何者にもなれなくて気がついたこと


心身の異変を無視し、それでも何者かになろうと背伸びをし続けた結果、気づけば適応障害になってしまった。

極端な例かも知れないが、背伸びをし続けて気づけば自分をないがしろにしていたのだと思う。

「何者かにならないと」という感覚ばかりに目を向け、自分の心身の状況を無視していた。ここまで来てふと思った。

「僕は誰だ。今生きようとしてるのは誰の人生なのか。」

ミュウツーの逆襲かよ。でも自分をないがしろにした結果、本当にこう思った。

何者かになろうとしてもいいんじゃないか


そんなことばっかり考えているうちに「何者かになろうとすること」を否定的に捉えることもあった。
でも、最近ようやくひとつの解が見つかった。

「何者かになろうとすることは必ずしも悪いことではない」

最初から自分のことを知っていて、自分を大切にできるに越したことはない。
けれど、残念ながら人間というのは複雑でややこしい生き物だ。だれしもがそんな複雑さや歪さや矛盾を抱えている。

だからこそ、その複雑さ、歪さ、矛盾に気づき、自分を知るために「何者かになろうとすること」は悪いことではないと思うようになった。

どこかで気づき、自分のこと知っていけばいい。そして自分にあった背伸びの仕方を覚えていけばいい。

「何者にもなれない」ことは希望なのかもしれない


そう、僕たちは「何者にもなれない」のだ。非常に残念ながら、僕は菅田将暉にも松坂桃李にも高橋一生にもなれないのだ。

それは外見の話だけでなく、中身においても同じだ。
ひとりひとりの人生に物語がある。その物語を通じて経験してきたことがあり、その結果が今の自分なわけだ。

似たような物語はあっても、まったく同じ物語はない。

だからこそ、「何者にもなれない」ことは希望なのかもしれない。

「あの人とまったく同じようになりなさい」

こんな風に思われ、そんな風に周囲が接してくることが気持ちいい人なんているのだろうか。

「何者にもなれない」ということは、「自分の物語を生きる」ことしかできないということの証左だと思う。

そして、「何者にもなれない」ということは絶望ではないのかもしれない。もしかすると「何者にもなれない」からこそ、「自分の物語を生きることができる」という希望を見いだせるのかもしれない。

「他の誰でもない自分の人生を生きる」という希望を知るために、僕らは「何者かになろう」とするんじゃないだろうか。

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