博愛という魅力的な狂気 中島みゆき『銀の龍の背に乗って』

今回紹介するのは、中島みゆきの『銀の龍の背に乗って』です。
この歌はDr.コトーのドラマの主題歌と言う事で、簡単にテーマを設定すると、
中島みゆきが考える「人を救うと言う事はどういう事か」が書かれていると思われます。

この歌詞を考えるのに当たって「銀の龍」って言うのは何なのかを考えるのが
割とキーだと思うんですが、
自分の答えを言うと「銀の龍」っていうのは飛行機のメタファなんです。
このテキストはそこへの気付きからの一点突破で書かれているんですが、
そこが分かるとこの歌詞の意味は簡単に分かります。

「自分の無力さを自覚した上で成長し、世界中で待っている「誰か」を助けに行こう」

命の砂漠へ雨雲の渦を運んでいくと言う事は恵まれてない所へ恵みを与えるって
言う事だと思うんですけど、ただここで中島みゆきが物質的な援助だけを想定しているとは思えなくて
(具体的に言うと日本のODAみたいな事)、
やっぱりDr.コトーみたいな直接的援助を世界中でやろうって言うのを考えているのだと思います。

Dr.コトーはあえて日本の僻地へ残って地道に医療活動をしてるんですが、
中島みゆきは「飛行機に乗って行って世界中の人を助けようぜ」って言ってるのです。
そういう意味では中島みゆきはいつものようにスケールがデカイんですが、
ただここでちょっと気になる点があって、
お医者さんだったら医療技術で世界の誰かを助ける事ができますよね。
(ex.ペシャワール会とか)
でも中学生とか高校生が誰かを助けたい!って強く思ったとしても
近所のゴミ拾いとかおじいちゃんの肩たたきとかが関の山じゃないですか。
これは中高生をバカにしている訳じゃなくてこれも立派な社会貢献だと思ってるんですけど、
いきなり世界に飛び出していっても逆に世界の人が迷惑なんですよね。

例えば新潟が震災に見舞われた時にボランティアの方がたくさん現地に行かれたみたいなんですけど、
技能がない人は逆に居たら邪魔って言ったらアレですけど、
何もできないのに来られても滞在費用がかかって自治体も困るって感じだったらしいんですよね。

要は誰かを助けるためには何かしらの能力が必要になるんであって、意思以前の問題なんですよね。
だから能力が十分でない人はちゃんと身につけてから世界に出て行かないといけないのです。
この歌詞では助けるかどうかの意思が問題になってるんですけど、
能力面にあまり触れてないところがちょっと不満な点です。
(でもそんな所まで触れてたら情感溢れる歌にならないというのはあります。
つまりこれは野暮なツッコミと言う事です)

あとは世界の人を助けに行くって言うのは、
やっぱり世界中の人をできるだけ等しく扱おうという博愛主義があると思うんですが、
一体どこまで等しく扱えるのかなという単純な疑問があります。

たしかに世界を見渡すと餓死してる人や戦争で死んでる人もいる訳で、
日本では考えられない不幸で世界は充ち満ちています。
人としてそれをなんとかしたいと思うのはきっと自然な感情です。

でもですね、その人たちに何もしてあげられない非力を嘆く前に
非力でも身近な人に何かしてあげる事はできるような気がするんですよね。

つまり何が言いたいかって言うと、
銀の龍の背に乗らなくてもできる事はあるはずなんですよね。

直接的援助(人的援助)が大切なんだって言うのはその通りだと思っていて、
お金だけバラまいてもたいして感謝されないって言うのは日本の戦後外交で明らかだと思うんですけど、
かといって国内をなおざりにして世界に打って出る訳にもいかないのです。

思うに、目の前の人を助けるのにはそれほど理由は要らないはずなんですが、
世界にいる未だ見ぬ「誰か」を助けるためには理由が要るんですよね。
その理由が結局分け隔て無く人を愛するのが良いという博愛という思想なんです。
博愛が良いと言う考えがあって世界に出て行こうとするんですよね。

世界中の人を救いに行く考えを博愛と呼ぶのだととしたら、
博愛とは魅力的な狂気であると捉えるのが適切なのではないかと思います。

僕としては目の前の問題にとらわれてそれを解決しようとする方がより自然だと考えますし、
少なくとも非力な1パンピーである僕は博愛という思想にどんなに惹かれても、
すべての人を等しく愛する事も救う事もできやしないと思うからです。

(フォロー:否定的な感じになりましたが、中島みゆきは大好きです)

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