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2種類の時間「クロノス」と「カイロス」。「かもめのジョナサン」Part Two へ。

時間は、2種類ある。

古代ギリシャの人々は、そのことにすでに気がついていた。時間には「2つの種類」があることに気づき、それを2つの「神」として表現した。1つを「クロノス」と呼び、もう一方を「カイロス」と呼んだ。

この話が出てきたきっかけは、今朝の「かもめのジョナサン」読書会。そこに、その描写があったからだ。今朝読んだのは文庫版のp66-73。「Part One」 から 「Part Two」 に入り、描写される世界が大きく変わった。

いままでとは違う世界へ。すぅ〜っと、さらに高い空へ昇っていくと、周りのかもめが光り輝いて見えたり、ジョナサン自身も金色に輝き始めた。さらに、全盛期の半分ほどしか力を出していないのに、倍以上も速く、鮮やかに飛べている自分に気づく。

そこにいるカモメは、以前いた場所のカモメたちとは違う存在感や価値観であることにも気づく。

ここには彼と同じ考えを持つカモメたちがいた。彼らの一羽一羽にとって、生活の中で最も重要なことは、自分が一番やってみたいことを追求し、その完成の域に達することだ。
(中略)
ジョナサンは長い間、自分が後にしてきた世界のことを忘れてしまっていた。それは群れのカモメたちが飛ぶことの歓びにかたくなに目を閉じて、その翼を、食い物をみつけそれを奪い合うためだけにしか使わずに生きている世界である。

これまでのジョナサンは「変わったヤツ」だった。

「みんなと同じこと」をみんなと同じようにすることができず、「自分の追求したいこと」をひたすら追求したくなってしまう。しかし、Part Twoで描かれている世界には、自分と同じ考えの仲間たちがいた。

変わり者だと見られていたジョナサンは、自身が追求したいことを追求し続けていた結果、内面的な変化を遂げていた。そのことが、彼を此処に導いていたことがわかってくる。

「自分らがどこからきたかということもすぐに忘れ、これから先どこへ向かっていくのかさえ考えずに、ただその時だけのことを考えて生きてきた。人生には、食うことや、争うことや、権力を奪い合ったりすることなどより、はるかに大事なことがあったんだと、そうはじめて気づくようになるまでに、カモメたちはどれだけ永い歳月を経てこなければならなかったことか。
(中略)
わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。もしここで何も学びとることがなかったなら、次の世界もここと同じことになる。それはつまり、乗り越えなきゃならん限界、はねのけるべき鉛の重荷が、もとのままに残ってしまうことなんだ。」

こういった言葉を読んだ後に、せいじ先生から「2つの時間」に関する話があった。

時計の時間と、感覚の時間。

時間には「2つの時間」がある。

「クロノス」これは、
「何時何分」と時計でわかるもの。

そしてもう1つは「カイロス」。

物事に没頭していたら、
「え、もうこんな時間!」というような
経験をしたことがあるだろう。

「あの感覚」を古代ギリシャ人は、
時計で確認する時間とは
違うものとして考えていた。

客観的な「時計」の時間と
主観的な「感覚」の時間。

ほとんどの人はクロノスで、
予定をこなすことばかりで生きてしまう。
しかしそれだけでは時間が過ぎるばかり。

* * *

Part Two に入ったジョナサンは、
以前の半分ほどの力しか出していないのに、
速く鮮やかに飛べること気付いた。

そのことに心を躍らせながらも、
「時速400kmしか出ていない。」と、
まだ数字的なことを見ている側面もある。

「体感覚」を味わうのではなく、
「数値」を気にしている。

ジョナサンが、「疲れた」と言っている。
これは、クロノスの世界。

感覚の世界、カイロスの世界では疲れない。

没頭して、夢中になって、
気がついたら、長い時間が過ぎていて、
でも疲れていない。むしろ充実感を感じている。
そんな経験をしたことがある人も多いだろう。

その体感覚の時間が、カイロス。
全然疲れないという経験が、カイロスであり、神の時。

クロノスの世界で生きていると疲れてしまって、
疲れたらドカ食いをしてしまったりする。乱れてしまう。
「時計の時間だけ」で生きてしまうとうまくいかない。

Here and Now.
「いまここ」

これは、時計の時間を表すものではない。
「見方」の話。
その見方によって、体が、時が、輝き始めていく。

Part Two に入って、
「美しい」とか「輝く」といった表現が出てくる。
これは「感覚」の話。

* * *

それまでのジョナサンは、スピードだけを意識する飛び方の追求だった。
それは強烈なひとりよがりで、そこに入ったままだと疲れてしまう。

Part One の終わりで、二羽のカモメが近づいてきて、
誘われるように飛び立ち、Part Twoの世界へ入っていった。

そこでジョナサンは「関係性」というものに気づき始める。
ひとりよがりで進んでいくだけじゃなく、
二羽のカモメと連れ立って飛んでいく。

ジョナサンのもとにやってきたカモメや、飛んでいった先にいた輝くカモメたちは、素晴らしい飛行技術を持っていた。群れから離れて、1人で飛行技術を追求していたジョナサンにとっても、驚くような飛行技術を。

いったい彼らは何者なのか?疑問に思ったジョナサンは聞いてみた。

「大したものだ」と彼は言った。「ところで、あなたがたは?」
「あなたと同じ群れの者だよ、ジョナサン。わたしたちはあなたの兄弟なのだ。」
その言葉は力強く、落ち着きがあった。
「わたしたちは、あなたをもっと高いところへ、あなたの本当のふるさとへ連れて行くためにやってきたのだ」
「ふるさとなどわたしにはない。仲間もいはしない。わたしは追放されたんだ。それにわれわれはいま、〈聖なる山の風〉の最も高いところに乗って飛んでいるが、わたしにはもうこれ以上数百メートルだってこの老いぼれた体を持ち上げることはできないだろう」
「それができるのだ、ジョナサン。あなたは飛ぶことを学んだじゃないか。この教程は終わったのだ。新しい教程にとりかかる時がきたのだよ」

実は、彼らは以前に同じ群れにいたカモメたちだった。ジョナサンは、自分は追放されたと思い、群れを離れていた間に、彼らは彼らなりの道程を経て、驚くべき飛行技術を身に着けていた。

ここでジョナサンは、他の仲間が学習しはじめて、
より優れた飛び方ができるようになっているということを
認めないといけないタイミングに来ている。

周りが自分にできないことをやりはじめているのを見て、
「うわーすげーなぁ」と認めて、またジョナサンも学び直していく。
それが新しい教程。ひとりよがりではない、次のステージ。

* * *

体が喜んでるか?が基準。
頭ではなく、体が喜んでいるか?

飛ぶということそのものに喜びがある。
「経験」として飛ぶのと、
「知識」として飛ぶのとでは、まったく違う。

「経験」というのは、
「選択」の連続。

会社にいかなきゃいけないのは「義務」かもしれない。
しかし、この読書会に来るということは「選択」をしている。

義務や約束事で集まっているものではない。
選択で来ている。
選択して、ここに集まっている。
だから元気になる。

義務で仕事をやって過ごす時間と、
この読書会で過ごす時間はまったく違うもの。

* * *

クロノスの世界で生きている限りは、
いろんなことをやってるわりに満足できない。

今日読んだなかに「鉛」という言葉が出てきた。
「鉛」を「金」に変えることを錬金術という。
自分の中の「鉛」を「金」に錬金する。

義務や約束事に縛られていると、
思い込みのなかで数字を気にしている堂々巡りの世界。

心が「金」に輝きはじめると、
時間が一瞬に感じるような感覚を味わう。

カイロスの世界は、一瞬だが、同時に永遠でもある。
感覚の世界。

カタツムリはゆっくりゆっくり動いているけど、
そうやって今を生きているということが素晴らしい。

* * *

ワクワクするというのは、エキサイトメント、興奮。
それもいいが、それだけだと疲れてしまうこともある。

それは「頭」でワクワクしているのか?
「体」が細胞レベルで喜んでいるのか?

同じワクワクでも、それは全然違うもの。

映画「オッペンハイマー」で、
アインシュタインが彼に忠告をした。
みんながチヤホヤしてくるが「気をつけなさい」と。
しかし、その忠告も虚しく、
彼は原爆をつくってしまう。
そして、後悔する。

そこで気がついていたら、
原爆をつくる方向に行くのではなく、
「どう平和をつくるか?」という方に
向かっていたかもしれない。

自分が充実しているとき。
体から喜びを感じて過ごしているとき。
それはカイロスの世界。

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幸福度を高める要素

人間が幸せを感じるとき、そこには満足感や達成感もあれば、人間関係から生まれる歓びもある。そして、ミハイ・チクセントミハイが提唱したフロー理論にあるような「没入・没頭・夢中」という状態も、幸福度を高めると研究の結果が出ている。

「お金があれば、もっと幸せなのに」と思うかもしれない。しかし、幸福度の研究において所得と幸福度の関係性を調査したところ、所得の上昇が一定水準以上になると幸福度が頭打ちになり、必ずしも所得の上昇が幸福度の上昇をもたらさないと判明した(イースタリン・パラドックス)。

さらに別の研究では、「お金で”客観的に幸せだと言われている状態”を買うことはできるが、”幸福感”を買うことはできない。」と結論付けられている。

参照元:「ウェルビーイングとは何か?技能科学への応用の可能性」
https://www.uitec.jeed.go.jp/kenkyu/paper/skill/ka7cok00000092g1-att/Vol.36No.2.E.P1-P4.pdf

たしかになるほど。「何かに没頭する、夢中になる」という経験と、そこから得られる感覚は、お金で買うことはできない。

では、どうすれば没頭できるのか?そこには
「能力レベル」と「難易度レベル」が関係してくる。

自分にとって簡単すぎることに取り組んでも、面白みを感じることはない。かといって難しすぎることに取り組もうとすると、心が折れる。

「できるか、できないかわからないが、ちょっと頑張ればできそうな感じがする」レベルの対象に向き合ったとき、人は高い集中力を発揮し、没頭し、フロー状態に入る。ゾーンに入ると言われたりもする。

つまり、没頭したり、夢中になったりするような状態に入り込むには、常に今の自分にとって「ちょっと難しいかな… これはなかなかのチャレンジだな…」と思えるようなことに取り組む必要がある。

安心や安全を求めてしまう気持ちが出てきたりもするが、どうやらそれだけでは人生は面白みに欠けてしまうらしい。ちょっとヒリヒリすることが、いくつになっても必要みたいだ。

読書会に参加されている「せいじ先生」は御年86歳で、ハツラツとした勢いで僕らに語りかけてくれている。きっとあの勢いと活力は、常にチャレンジしていく心の姿勢から生まれているように思う。

そして、今、読み進めている「かもめのジョナサン」からは、自分自身の内側から湧き上がる探究心にしたがって挑戦を続ける姿勢と、本当に大切なことは何なのか?を追求して生きていくことを僕らに思い出させてくれる。

僕はまだ、この物語の結末を知らない。だから、面白い。

どんな時代だって、
先行きは不透明で、不安がつきまとう。

「でも、だからこそ面白いんじゃないか。
 先がわかっているなんて、なんてつまらない。」

それを、たまたま見た動画で、
92歳の行徳先生が教えてくれた。
「行徳哲男先生 生誕祭 REBORN 若者へのラストメッセージ」

なんだか最近は、人生の諸先輩方にいろいろと教わって、心の軸が整ってきたような気がする。何を大切にするのか?とか。まぁ、まだまだ未熟もんですが、、

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