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小説を、純文学を、

自己紹介的なものは、こういう媒体では必須なのだろうが、素性は知られたくもないし、しみったれた日々の愚痴を開陳するような度胸もない。
ここ数年、社会から断絶した(生きるための最低限の関りだけの)生活を送っていて、一日家族とも話さず言葉を喉からしぼり出すことも無く、夜になってそれに気づいて可笑しくなったりするのだが、社会の”普通”のレールから逸れた自分はその断絶状態を割とポジティブに捉えている。

少し離れた場所から社会の騒乱(コロナ禍で狂乱になった)を見ていて、青年期から薄々感じていた、「自分はこの社会にフィットしていないのでは」、という感覚がはっきりと確信に変わってきた。
学校では自由と平等の尊さを皆教わっただろうが、それが建前でしかないことは社会に出れば否応なく突きつけられるし、自由と平等より、規律や規範の方が貴ばれる社会の姿がコロナ禍では浮かび上がっている。一方で、弱者から搾取する自由だけは謳歌する世の中に、怒りを感じもするが、その怒りは壁に水を浴びせるように、色もつかず染みにもならず、ただ蒸発してまたそこには変わらず壁が立っている。

この怒り、社会への違和感は澱のように溜まって体を重くさせ、どこかで発露しなければ、部屋に籠っているうちに干からびて死んでしまいそうなので、一念発起、何かを書いてみようと思ったのが四年前だ。
手始めにアマゾンの映画レビューを書いたり、フリーライターの雑記記事を書いて小遣いを得たりしてみた。映画レビューを書くのは、作品の構造や思想、作者や作り手の商業的思惑が把握できてよかったし、イイネボタンは社会との繋がりを確認できて、気づけばランキングも二百位くらいまで上がっていた。

何となく、世間とゆるく繋がっているのを感じていた時期、文芸誌『群像』に載っていた「美しい顔」を読んで、衝撃を受けた。怒りが小説に昇華されていると思った。この小説の顛末は皆も知るところだろうが、文章に宿る力が釘を心臓に打ち込むように感情に直接訴えかけてくる経験は久々だった。
中高の頃、小説で何度も味わってきた感覚だった。あの頃、小説のようなものを書いていた焦げるような情熱が、まだ自分の中で燻っているのを、見逃すわけにはいかなかった。

それから、文学新人賞を目指して、小説を数本書いてみた。『コバルト短編小説新人賞』『九州芸術祭文学賞』『ことばと新人賞』、それにショートショート形式になった『ぼっちゃん文学賞』、すべて落選の憂き目にあったが、自分では書いた小説が至らないものだったと自覚している。アイデアも語り口も凡庸で、怒りも喜びも、小説に宿っていなかったからだ。誰かの真似事の小説を書いて悦に浸っていた。書き続けなければ、魂は宿らない。

ここ半年ほどは家の中で様々な出来事があったので筆を止めていた。少し家の方も落ち着いてきて、noteを覗いてみたら、文芸誌の新人賞を目指して書いている人がたくさんいる。モチベーションを上げるのにもちょうどいいし、ここで有言実行を目指すべく、どの賞に向けて書いていくかを書き記しておけば、締め切りを言い訳に応募を渋ることもない。

というわけで、とりあえず、『ことばと新人賞』に向けて、考えている小説を書き始めようと思います。有言実行。壁を壊そうと思います。

#小説 #純文学 #美しい顔 #ことばと新人賞

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