『東京の敵』(角川新書)#1 なぜ五輪の問題が噴出するのか

なぜ五輪の問題が噴出するのか

 現在の都政の妨げになっているのは内田茂氏だけではありません。もう一人のドンは、現在2020年の東京オリンピック・パラリンピックを仕切っている、森喜朗・東京五輪組織委員会会長です。内田氏が、金メダル級のドンだとしたら、森氏はグランドチャンピオン級の大ボスであり、まさしく「東京の敵」です。
 新国立競技場の建設費の暴騰やエンブレムの問題など、なぜ五輪をめぐってこんなに不祥事が噴出し始めたのか。それは大会の実行委員会である東京五輪組織委員会のガバナンスに問題があるからです。組織委員会のトップである森氏がガバナンスを利かせていないがゆえに、意思決定ができない無責任体制ができあがってしまったのです。
 新国立競技場は、国際コンペで採用された建設プランが、二転三転の末、白紙撤回になった。その理由を文部科学省の第三者委員会は「意思決定がトップヘビー(上層部に偏り過ぎ)で、集団的意思決定システムの弊害があった」と結論付けています。つまり、「有識者会議」が決定権を持っていながら何もしないので現場は動きがとれなかったのです。その有識者会議の中心人物は森組織委員会会長でした。そして、現在も意思決定は不明瞭なままです。
 なぜ予算は増大したのか。そしてなぜ森氏を中心とする無責任な組織ができあがったのか。僕自身がどこまで何について決定権を持っていたかも明かしながら、五輪招致の経緯を振り返ります。

コンパクト五輪は2016年招致から

 僕は2012年7月27日に次のようにツイートしています。

 誤解する人がいるので言う。2020年東京五輪は神宮の国立競技場を改築するがほとんど40年前の五輪施設をそのまま使うので世界一カネのかからない五輪なのです。

 まず、このツイートの時点ですでに新国立競技場については、JSC(日本スポーツ振興センター)と有識者会議が、「新国立競技場基本構想国際デザイン競技」の実施を決定しています(2012年7月3日)。もともと改築で調査していたものが、急に建て替えの方向で動きはじめました。国立競技場については当時の僕は東京五輪の担当副知事でないので、刻々と変わる情報を得ておらず、認識が不充分な面がありました。
 しかし、「カネのかからない五輪」というコンセプトで動いていたこと自体は間違いありません。そして、その実現に向けて動いていたことも事実です。施設については、10年前の五輪施設をそのまま使うものも少なくありません。たとえば柔道は武道館で行うし、ハンドボールは代々木体育館で、馬術は馬事公苑で行います。これらは1964年のレガシー(遺産)です。加えて、多くの招致都市の場合には、そもそも、五輪にあわせたインフラ整備が必要です。東京にはすでに世界有数のインフラがあります。高速道路は大会の会場近くまで整備されていることに加え、 1日2600万人の乗客を運ぶ交通網が秒単位で正確に動いています。これも1964年のレガシーの一つです。
 コンパクト五輪を掲げたのは、2016年東京五輪招致に端を発しています。コンパクトのコンセプトは、立候補を表明してすぐの、06年当時から掲げられていました。
 石原さんは、東京の真ん中で世界中のアスリートが競う、ホンモノの筋肉の躍動美を東京オリンピックの記憶がない若い世代に伝えたい、そう本気で思っていました。石原さんのオリンピックへの思いは強かったのですが、政府はまったく無関心でした。
 小泉政権が終わると安倍、福田、麻生政権とめまぐるしく国のトップが交代しているさなか、石原さんが名乗りを上げた東京五輪に対して、政府は勝手にやってくれ、との姿勢でした。短命内閣が続き麻生政権のときにはリーマンショックも重なり、この国の長期的なビジョンを国民が共有できない時期が続いていました。リーマンショックの傷は深く、政府はオリンピックどころではなかったのです。
 神宮の国立競技場も提供されず、仕方なく湾岸エリアを中心に立候補申請ファイルがつくられました。ただそれがロゲ会長の方針、すなわちアスリートファーストのコンセプトには適っていたのです。
 当時は国内候補地として福岡なども名乗りを上げましたが、そもそも福岡では都市として体力的にも難しいものでした。ホテルの客室数を比較しても、東京を含む首都圏では14万室、福岡周辺ではせいぜい1万、2万にすぎません。最終的にはコンパクト五輪の方向 評価され、JOCは(日本オリンピック委員会) 東京都を候補地として選定します。
 2020五輪の招致活動は2013年1月から9月までの期間でしたが、2016年五輪の招致活動は2009年2月から10月でした。時期がよくありません。すでに述べましたが前年9月がリーマンショックで、麻生政権はつまずきからスタートしたようなものです。しかも、未曾有をミゾウユウと言ったりするなど失言続きで国民の気持ちも自虐的でした。だから立候補は盛り上がらずに、支持率も50%台半ばと低迷していました。
 当時のIOC(国際オリンピック委員会)のロゲ会長は、選手村から競技場への距離が短い、それがアスリートファーストだ、とコンパクト五輪を標榜していたのです。実際、2012年のロンドン五輪の招致レースが行われた2005年、ロンドンとパリがコンパクトのコンセプトで互角に争い、最後の最後の決戦投票でわずか4票の僅差でロンドンが勝利しました。パリはサンジェルマン通りで勝利の前夜祭をしていたぐらいですから、野球にたとえれば9回裏のサヨナラ逆転打でロンドンが劇的に勝ったのです。
 2016年五輪は、政府の協力はほとんどなく東京だけでやるしかない状況でした。
 メインスタジアムは、今回の選手村に予定されている晴海地区に都立の施設として建設する予定でした。そこで石原さんが、いくら何でも国が何もしないのはおかしい、と主張したところ、当時はメインスタジアムの建設予定費1000億円でしたが、それを折半して500億円を国に支援してもらう、となったのです。新スタジアムが都と国との折半だとは直接聞きました。僕は担当副知事ではありませんが、神宮の国立競技場が使えないのは理不尽なことだな、と感じていました。
 そして最大の危機は、招致決定の最終プレゼンの直前の9月の政権交代でした。招致において大切な時期は、大きな変化のなかにあったのです。そして鳩山由紀夫新首相はニューヨークの国連で演説することになり、渡米しました。
 2016年五輪の最終プレゼンは2009年の10月3日、デンマークのコペンハーゲンで行われました。そもそも、衆議院選挙における民主党の大勝は8月30日で、鳩山さんが首相に指名されたのは9月16日です。五輪招致の最終プレゼンに首相が出ないということは前代未聞、大きなマイナスポイントです。
 いまでも忘れられません。9月26日の土曜日に石原知事はコペンハーゲンへ旅立ちました。その際、「猪瀬さん、頼んだよ!」と言われました。国連演説のため渡米中の鳩山首相が帰国するのが翌日曜日、石原さんとはすれ違いになってしまったのです。
 日曜日は大相撲秋場所の千秋楽でした。誕生したばかりの民主党政権は何を考えているのか、さっぱりわかりません。五輪招致に賛成なのか反対なのか、それすらわからない。ましてや鳩山さんは宇宙人と呼ばれています。さらに鳩山さんは帰国したその足で両国国技館へ総理大臣杯のために駆けつけるのです。首相の升席と都知事杯を渡す都知事の升席は隣り合わせだったのが唯一の救いでした。石原さんの「頼んだよ!」は、そこで話をつけてくれ、との意味です。ぎりぎりの時間に国技館の升席に坐った鳩山さんに、重要な使命があるのです、と口説いたところ、あのキョロキョロと動く眼が、しばらくして止まりました。意味を理解したという眼に変わったのです。
 鳩山首相は最終プレゼンに間に合いました。しかし、招致は失敗します。南米初をセリングポイントにしたブラジルのリオデジャネイロに敗れました。埋立地を森にする、ディーゼル車を規制するなど、地球温暖化対策のコンセプトを盛り込んだ石原さんのコンパクト五輪案は、「環境問題は五輪のテーマではない。環境は国連でやることだ。五輪はスポーツの大会だ」とIOC委員からは冷たい評価でした。

(次回はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?