12月23日に何が起きていたか? 昭和史に刻まれた『暗号』を読み解く。

 昭和23年12月23日に何が起きていたのか?
西麻布の僕の仕事場に一通の手紙が舞い込み、そこから物語がスタートします。『昭和16 年夏の敗戦』の完結篇になります。

『昭和23年冬の暗号』(中公文庫)

第1章 子爵夫人


 前文お許しください。ご相談があります。
わたしは、先生のお住まいの西麻布に比較的近い、南青山におります。
表参道から根津美術館へ向かう道筋で、一度、お姿を拝したことがあります。
 長いこと、お手紙を差し上げたく存じていたのですけれど、そうこうしているうちに幾歳も幾歳も過ぎ去り、優柔不断さにあきれかえっているのです。わたしは三十九歳、今年中にひと区切りさせておかなければいつまでも……、なにも過去を清算するというような大袈裟なことではありませんが、衝動的に、息せき切って筆を執るしだいです。祖母の日記のことです。むかしの出来事についてです。謎をかかえたままでいると、わたし自身の行き詰まりにつながりそうで。
 表参道の同潤会の建物は枯れた銀杏の葉のような色でしたね。青山アパートメントと呼ばれていた三階建ての低層のビルですが、つくられたのは関東大震災の後で、十棟も並んでいるのは壮観だったようです。数年前に安藤忠雄さんの設計で表参道ヒルズに生まれ変わりました。蔦の葉で覆われていた壁面も、いまはガラスが光を反射しています。
 祖母の家も同じぐらい、歴史があります。もう、ずっと誰も住んではいません。とうとう壊すことになりました。
 都心なのにちょっとした雑木林のなかの洋館で、もう幼いころの想い出しかありませんが、子供専用の家具をしつらえた子供室があったのです。角のない丸テーブル、転んでもケガをしない厚めの絨毯が敷かれていました。
 あのバブルで世情が浮足だつ少し前、わたしはティーンエイジャーでしたが、いきさつはよくわかりません。急に人手にわたることになり、なつかしい家を出ました。その後、誰の手に委ねられたのか、所有権が転々としたみたいでした。マンション建設に抗議する付近の住民の反対運動があったとも聞きました。
結局、表参道のように低層階のマンションにするらしい、そう折り合いがついたということで、数年前に建設会社の人がわたしを訪ねて参りました。わたしになにか権利があるわけではないのですが、手に臙脂色の本を何冊もたずさえていました。
 その四十五歳ぐらいのメガネの人が、建設会社の人とピンと来たのは、作業ジャンパーにネクタイをしていたからです。人のよさそうな困惑した顔で、壁の隙間に落ちていてなにか大切なものではないかと思いまして、とごしんせつにわざわざ届けてくれたのです。そっとめくってみたのでしょうね。日記だとわかって、あわてて閉じたのではないでしょうか。
  わたしが銀座の伊東屋で買うのは、カラフルなクオバディスの日記帳ですが、臙脂色の重たいその日記帳には金色の文字で「博文館当用日記」というタイトルがついています。昭和二十年とか二十三年と印刷されています。
  祖母の日記ではないか、と思いました。
 パラパラとめくってみました。一ページ、一ページとめくれない。何ページもくっついていたり、水に滲んだ跡もあり、字も流れるようなペン字で、女性の字ですがむずかしくて読みづらい。最後のところが(昭和二十三年)十二月七日で終っている。
 「ジミーの誕生日の件、心配です」
 年末までの残りの三週間あまり、空白のまま。ジミーって誰?
 祖母はなにを心配していたのでしょうか。
 わたしの相談ごとは以上です。    かしこ  

 この手紙が届いたのは梅雨が明け猛暑へと移る季節の変わり目だった。
 僕の仕事場の住所やメールのアドレスはすぐにわかるので、未知の読者からの便りは少なくない。
 読者のていねいな感想文もあれば、自費出版した本を読んでほしいという要請、役所の内部告発もあれば地方のイベントの知らせもある。勝手なお願いから言いがかりまで、きりがない。なかに興味深い内容のものもときどき混じっている。この一通は磨けば光る原石のようなもの、かもしれない、と思った。謎があればこころ穏やかならず、すぐにそのとりこになる僕の貪婪(どんらん)な探究慾がまたもや首をもたげた。
 幾度かの手紙のやりとりから、日記にアメリカ人の名前が頻繁に出てくること、日記の持ち主が上流階級出身であることなどが窺える。昭和二十年から昭和二十三年といえば敗戦とアメリカ軍が進駐していた時代、焼跡闇市の時代、新憲法がつくられたりした激動の時期である。
「お会いしてみたい。日記を見せていただけますか。そうすれば謎解きに協力できるかもしれません」
 これ以上、先に進むには実物を拝見するよりない。
 ケヤキ並木の表参道と青山通りが交叉している十字路の下には、地下鉄銀座線と地下鉄千代田線と地下鉄半蔵門線の三路線が乗り入れている駅がある。
 A4番とA5番の出口の階段を昇ると片側二車線、上下四車線の表参道とは反対側の狭い道に出る。片側一車線ずつしかない。歩道にはケヤキではなくアカシアが植えられている。北原白秋が作詩した「この道はいつか来た道」にも「アカシヤの花が咲いてる」のだが、白い花をつけるのは夏である。
 真昼の日光がアカシアの並木の影をアスファルトに圧(お)しつけ、リズミカルな縞模様ができている。遠近法で描かれた風景画のもっとも遠い中心の部分に、根津美術館の森がかすかに見えるはずだが、狭い道路はわずかにカーブして隠れている。
 六百メートルほどの間に、コムデギャルソン、プラダ、カルティエ、ヨックモック、ヨージヤマモト、フロムファースト。カタカナだらけのショーウィンドーを過ぎ、根津美術館の前を左折すると青山墓地が望める。
 手紙の主が教えてくれた住所は「南青山第一マンションズ」だった。A5番の出口がそのまま吸い込まれていきそうな十二階建ての大きなマンションである。隣に小さな稲荷の祠(ほこら)があって、赤い涎掛けをかけた白い狐が二匹坐り、緑の葉陰から虚空を睨んでいる。「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」などのテレビドラマの脚本やエッセイの「父の詫び状」、小説「思い出トランプ」でいまでも固定ファンが多い向田邦子が住んでいた。コムデギャルソンに向かい合っている間口一軒の稲荷について、小さいのに大松、と不思議に思いながら無病息災を祈っていた、と向田邦子は書いている。
 近くのコーヒーショップで待ち合わせよう。紺色のタイルがきれいで中庭のハナミズキの木が涼しげなヨックモックでもよいし、フロムファーストの一階のガラス張りのレストランでもよい。

 いま僕の前に坐っている女性は、派手な身なりではない。色彩がほどよいのは素材が上質だからだ。あわてずゆったりとした話し方、瞳が安定して相手の出方をうかがう警戒心が見られない。媚びることもない。機智をことさらひけらかすわけでもない。洗練とか優雅とか、結局、そういうものは一代では備わらないのだ。遠い過去が保証してくれているように思われる。
「そうすると、お祖母さまは子爵夫人ということになりますね」
 古い写真を一枚、持参していただいた。昭和二十一年ごろ、年齢は三十二、三歳。瓜実顔で古風な人形のように整って美しく、胸元が大きく開いた洋装とうまく調和している。
 写真を眺めつつ話の成り行きから、糸口を見つけなければいけない。


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