旅、 そして知覧へ  その1


先日、車中泊で九州・鹿児島あたりを1週間ほど巡ってきました。
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2024.09 車中泊(九州。1週間)シリーズ


コースは

【今回の車中泊コース】

福岡・道の駅むなかた
→大分:日田
→大分:天ヶ瀬温泉
→熊本:道の駅竜北
→鹿児島:知覧
→鹿児島:佐多岬


だいたい決めての、思いつき。


本来のいつもの自分らしいスタイルで、いい感じの旅になりました^^


もともとの予定は、あるようなないようなで「今後の拠点を考えるのに九州巡りかな〜、メインは鹿児島方面で、行けたら屋久島いきたいな〜」位でスタート。


そうしたところ、アイデアの流れで鹿児島・知覧に寄ること、、、


今回は、そんな流れだったりを含めて書いてみた、お話です。




実は今回の車中泊旅。振り返ると、結果的に、というか、旅の途中から、自分の中で、ずいぶん原点回帰、さまざまの整理・思い出し旅になりまして。


その流れで、先日、タワシが旅に出た理由【ver.2024.09】(僕が楽しさが大切と言う理由)という「僕が初めて海外に旅に出た流れの話=僕が楽しさにこだわるようになった原点の話」を改めて書けたのですが


今回のお話、は、そのアナザーストーリー。


今回の旅で「楽しさを追い求めていく大切さ」を別角度から改めて思い直した、思い出した、もう1つの、ちょっと切ないスパイスも含まった、お話です。


よろしければ、ごらんくださいませ〜^^


でわでわ〜


***


実はひそかに3年ほど車暮らしをしているという、噂の僕(噂にしておこう。笑) は


週末になると、だいたいそこで過ごすことにしてる「某 道の駅 む○かた」に向かい車を走らせます。


そこで過ごすのは、地元ということもありますが、どちらかというと日頃過ごしている場所から、最も近くの道の駅で、雰囲気がよく、いい時間を過ごせる、から、です。


「や〜、たのしみだな〜」と車で向かっていると、それとは、ちょっと違う別の理由で、ときどき少し、僕の心に、ちょっとポップな、うれしさが湧いてきてくれたりします。


ふと「あ〜、そういえば、あいつ元気にしてるかな〜」という思いが訪れてきたくれるから、です。


そう「そういえば、アイツに会えるんだったな〜」と彼、大好きだった後輩くんに会えるな〜、ということを思い出すから、です。



声が聞こえて、かもしません。



そう「某 道の駅 む○かた」は、彼がやすからに眠っている、彼の地元でもあるからです。


・・・


昔話。


僕は大学で、人数の多いバスケットボールサークルの幹事をやっていました。そこに地元で隣の中学だったその後輩くんが、2つ下で入ってきました。


彼と僕は中学時代のバスケットボール部の監督が同じでした。メチャクチャ厳しかったその監督が、僕の卒業後、彼の中学に異動しており、同じ先生からバスケットを習ったという話で盛り上がったこともありました。


彼は、僕にずいぶんなついてくれたように思います。ほかの同期から「アイツはとしの親衛隊みたいだな」とからかわれたこともありました。


昭和気質というか、お酒が大好きで不器用で、典型的な九州男児だった彼は、思い出せば、ちょっと西郷隆盛さんのような、宮沢賢治さんにも似たふうなところもあったような、そんな朴訥で純粋さも持っていたように思います。


僕がマメなタイプでもなく、他のみんなに馴染んで世界が広がったこともあって、他の連中と飲みにいったりすることも多くなっていきましたが、それでも事あるごとに僕に絡んできてくれてました。


たまたま僕の実家でバスケットボールサークルの連中が10数人あつまって飲み会があった際には、泥酔して前が見えなくなった彼が倒れこみながら「くらさーーん!くらさーーん!尊敬です!」と当時の僕のアダ名を叫びつつ、たまたま通りかかった僕の妹の足首を必死で掴み、妹を驚かせ、周囲の連中から「たしかに、くらさんは、くらさんで間違いないやろうけど」と失笑されたりしてました(笑)


時代ですね。そんな、さまざまなことも思い出されます。


・・・


アルバイト。


そんな彼がアルバイトを探していたので、僕だったか他のメンバーだったか誰経由だったかは覚えてはいませんが、彼が僕らのバイト先のコールセンターに入ってきました。


そのバイト先は、だいたい常時40人位、メンバーがいて入れ替わりでシフトを組んでました。そのうちの6割は、僕らの大学の、いくつかのサークルメンバーの連中で固められてました。各サークルの先輩から代々後輩に受け継がれるようなバイト先だったからです。そもそも僕も先輩から紹介されて入社してたものでした。


特に当時は、僕らのサークルのメンバーが多く、同期が4〜5人、後輩が7人?もっと?在籍しており、他のメンバーも、同じ大学で見知った連中が多くいました。大学以外のメンバーも、音楽をやったりする子も混じっており、とても楽しい職場でした。


同じサークルや顔見知り連中で組んでいたので、環境面で融通のきくことも多くありました。いったん入ると長期勤務者の多い、とても人気のあるバイトでした。


そのバイト先の社員さんは、年が近い方、若い社員も多く、雰囲気もよい方が多かったです。活気もありました。


その中で、バイトメンバーはさまざまな業務で深く関わり、任される仕事も幅がありました。社員よりも仕事歴が長くなっているパターンも多く、社員の人に業務を教えたりすることもよくありました。ある種やりがいも感じやすい、そんな状況でもありました。


(そのため一部のメンバーは大学にいかずバイトにのめり込んでしまうことも多く、のめりこみすぎて留年してしまう率も異常値でした。本人が納得してるパターンも多かったですが、自分で学費払ってたりしてたと思います)


バイトへの評価も高かったです。同じ大学内でサークルでたくさん人を集めてきてたりしていたこともあり、しかも入ってくる連中はデキる人が多かったし、全体的にすごく評価してくれていたこともありました。さまざまな面にすごく理解がありました。


しかも、大学生のバイトからすると時給自体も良くて、加えて夜勤もあり、夜勤残業、長時間勤務もよくありました(時代的にも勤務時間面もゆるかったです)そのため給料もかなり良かったです。


下手すると単純な月給は新卒の子よりも全然給料が上という場合もあったのです。ちょっと前の時代での「下手したら社員よりも給料のいい派遣」のパターンでした。


いま思えば、そんな状況は、半分良いような、悪いような、なことだったのかもしれません、彼にとっても、他のメンバーにとっても。


そんなことを思っても、


時間は今さら巻き戻せないのですが、、、


・・・


旅にでることが遅くなった理由。


先日ぼくはタワシが旅に出た理由【ver.2024.09】(僕が楽しさが大切と言う理由)」で、自分が海外の旅に出た流れを、書きました。


そこで実際に大学を出て、旅にでるまで6年もの間を資格試験の失敗で費やしたことに触れました。


6年という期間「僕にとっては何かしら必要な期間だったのだろう」と思う反面、「もう少し早くでてたら、どうなってたろう?」と思わなくはありません。


そんな状況になった要因の1つには、そんなバイト先の半分良いような、悪いような、状況も関係していました。


思えば、ある意味、環境がよすぎたんだろうな、ということです(もちろん、自分の及ばなさ、至らなさもいっぱいありつつ、です。どんな環境もいい悪いもあったりしますよね)


僕の場合も、卒業後も試験前は3ヶ月休みを取らせてくれるようなシフトも全然OKだから、と応えてくれて、しかも当時、勤務期間も4〜5年たっており、給料が、通常のバイトよりも、よくなっていました。


ある程度稼がないと、勉強させてもらえない状況でもあった僕にとってありがたい環境でした。


そうなると実際、なかなか困る、ということが正直なく、切羽詰まる、感が弱く、かと言って、日々の業務は、そこそこ忙しい、し、夜勤が混じると、すぐ2日たってたりしてて、気がつくといつのまにかずいぶん時間が経っている、そんな感覚もありました。


そうした中で、特に僕の場合は、勉強や家のストレスがバイト先で和らぐこともずいぶんありました。試験勉強をしてる間は、僕なりに張り詰めて、距離を置くようにもしていたのですが、追い込みきれてもなかったと思います。


結果的に、それが僕が旅にでることが遅くなった理由の1つ。いい悪いもない、のですが。


・・・


僕は運が良かったのだろうか?


ときどき、ふとそんなことを思ったりします。


あの期間がなかったら、今、僕はどうなっていたかわからないな、ずいぶんそう思ったりもするからです。


もしかしたら、旅にでず、あのままずっといても、あの流れには、あの流れの延長があって、もしかしたら、なんとなくそれなりに過ごせて暮らせていた、そんな先があったのかもしれない、そう思ったりもします。


でも、やっぱりそのままでは進んでいかなかったように思います。


僕の場合は、たまたまそんな時間を過ごしたことがきっかけで、最終的に、外に旅でることができました。


28歳で旅に出て、3年間、海外、外の世界で、たーくさんのことを目にし、本当に、さまざまな経験をしました。


自分なりに様々な経験をしすぎたおかげで、最終的には思いがけずベジタリアンになって帰国したほどです(笑)


本人もまったく予想してない流れだったので、そりゃー、その昔から僕を知る連中、大学や学生時代やバイト先の人たちに、タバコもお酒を辞めて、ベジタリアンになって、って言ったら、ビックリがすごかったです(笑)


「え!!」顎をはずしながら、腰を抜かされつつ、胸ぐらつかまれ灰皿投げられかけるほど、あきれかえられながら、、、(笑。^^;


どうやら、僕は、以前を知る者からすると、ずいぶん真逆人間になって帰国していたようでした(うっすら自覚はあるけど。笑)


そうして僕は、結婚し、いきおい余って、離婚をして、日本を季節労働でめぐることになりました(自分で書いてて、いったい何やってんだろうと思わなくはありません。笑)


日本をめぐる中では、色んなことを思いました。色んなことをたくさんの考えました。


そもそも旅に出なければ、存在しない出会いだったので、それほど考えるようなことでもなかったのですが「旅にでる前の僕だったら、こう(離婚)にはなってなかったのだろうか?」「旅に出る前の自分に戻ったら、こうはなっていなかったのだろうか?」


でも、それでも、やっぱり、あのままいくよりは、今の方が、ずっとずっとマシじゃないかなと思っていました。


もし、あのままでなんとなく何年もたっていて、その後に、何かを思うようになって焦るよりは、ずっとマシなような気がしました。


長い目で見て、きっとよくないことになっていたようにも思うからです。


それはたぶん、外からどう見えるかは別にして、今は常に自分らしい選択で自分らしい人生を過ごせている、自分らしさと自分らしい楽しさ、とちゃんと共に居れてる、そんな感覚があったから、かも知れません。


ズレてるかも知れないけれど僕なりには、僕の人生を手を抜かずにやれている、過ごせている、奥底でそう思えているから、かも知れません。



あの暗闇の時代、どこかで「きっと人生とは、この環境、この程よい感じ、だけでは、済まない。いいだけ、では済まない。自分の何かを見つけなければ、自分の人生の芯となる何かを見つけなければ、長い目でみたら、何だか、よくないような危ないような気がする」


そんな焦りが常にありました。それはしんどい期間でした。


「これ(資格勉強)は正解ではない、きっと何か違う」と思いつつ、違うということはわかるんだけど、正解は見つけらず、それで、もがいていてもがいて、目の前の勉強にも集中できなくなって、、、そんな期間でした。


ただ今からすると、あの期間は、結局6年で、いつのまにか、6年よりも何倍もの時間が経っていて、今それらの時間について改めて考えてみると、


色々あったにせよですが、あの期間を含めて今は、長い目で見ると、やっぱり僕にとっては、ある意味、正解で、必要なことだったんじゃないかなと、強くそう思います。


まだ今の方が、実は、あの期間が、土壌になって、その後の僕の人生がどんどん、できてくれている。年を経れば経るほど、どんどん多くのものをもたらしてくれるようになっている。


自分らしさ、自分らしい楽しさを軸にしていったものは、そうでないものよりも、何倍もつみあがってくれているものがある、何倍も広がりのあるものになってくれている、そんな感覚・思いが強くなっているからです。


そんなふうに、色んなことを考えがりしながら巡り歩いて、沖縄から、たまたま福岡に1週間ほど帰っていた、時のこと。


6年くらい前でしょうか。


Facebookのメッセージに、同期から連絡が届いてました。


「○○が、亡くなったって。理由はね、知らされてないらしい、、。急なんやけど明日、宗像で式やって。来れる? 身近やった人たちでやるらしい」


・・・


斎場にはサークル・バイトで共に過ごした連中だったりが、集まっていました。


大学卒業から、あっという間に、もう40すこし。もうあれから20年近くたっており、みんなそれなりに色んな経験をかさね、さまざまに枝分かれした人生を歩んました。そこそこのいいおじちゃん、おばちゃんになってました。そんな連中が、みんな一様に、悔しさとやりきれなさを滲ませてました。


彼は、そのまま、ずっと、そのバイトを続けていたそうでした。


そこから離れてはいましたが、うっすら事情は聞いて、なんとなく事情は予想できました。


その会社は、バイトから社員になるパターンもありました。だいたい仲間うちでも10人くらいの中で特にできる1人は社員になっていく人もいました。大手企業で、名は通ってます。


ただ僕がいる途中の頃あたりから、バイトから社員になる、というステップで、評価や壁が、人数だったりが、厳しくなりつつある時代でした。


実際に関わりのあった現場の社員の方たちの意向だけでなく、もっと上の会社の社会システム上での判断が強まり、現場サイドの声、現場からの押しが届きにくくなり始めていました。


バイトから社員のステップより、優秀な新入社員を新卒採用したりで、さまざまな角度での思惑の食い違いが出てき始めていた、そんな流れが始まってました。


僕がいたあたりから、そうなり始めていた位だったので、近年は、もっと厳しくなっていた頃かも知れません。


それなりに僕もさまざまな社会に触れる年齢にもなってはいたので、さまざまなことが透けて見えるような気がしました。


後輩が泣きながら「○○さん、最近、ますます酒量がすごくなってたみたいで、、、バイトもちゃんといけてなかったりしてたみたいで、家でも荒れていたらしいです、、、」とはき出していました。


奥の方にいらっしゃって、よく見えなかったのですが、ご両親がボーゼンとたたずんでいたように思われました。


しっかり様子を見るのも、憚られる気もして、僕はずっと下を見てました。


ご実家は、イチゴ栽培もでかけておられ、大きい農家さんでした。彼が「姉ちゃんは、ちゃんとしてる」みたいに言っていたように記憶しているお姉さんは、ご主人がお寺の住職さんに嫁がれていたようでした。


そちらが、ご挨拶をされていたのですが「色々な思いもあったろう、ただ、なんで、打ち明けてくれなかったんだ!」という言葉が、なんだか演説のように聞こえてしまい、なんとなく力が入らなくなって、うなだれてしまった、、記憶があります。


・・・


アホでよかった、そして、大きな世界をみていてよかった


それからまた少し時間が経って、今の僕は、暗いというよりは、もはやアイツは、今はもう、あらゆるものから解き放たれて、楽しく適量の(飲みたくもない量を無理矢理、詰め込んだりすることなく。笑)お酒をのんだりして、ゆるやかに暮らしているんじゃないかな、と心からそう思ってます。


僕なりに色々と経験できたを通して、なぜかいまの僕はそう思うようになりました。だから、きっとそうだと思うんです。



関係ない可能性も高いですが、


僕自身、旅の間で、ベトナムで監禁されたりだとか、


長野の山小屋で働いている時。すべって転んで後頭部を強打して、20秒ほど完全に意識が真っ暗にシャットダウンされて(20秒くらいとは聞いたけど、、まあ、それはおいおい)そこから目を覚まし救急ヘリコプターで病院に運ばれたり、だとか(スイマセン。苦笑)


よくお墓で野宿してたりだとか(スイマセン。苦笑✖️2)、


そんなさまざまな経験をしたこともあってかも知れませんし、


脳の勉強をして、人が死ぬ間際には、脳内でハッピーホルモンと呼ばれ痛みを和らげ、死の瞬間に感じる苦痛が軽減され、幸福感をもたらす効果があるエンドルフィンが流れるとも聞いていて、それをまったく疑うことなく信じてますし、


ガンになられた知人の話から、ガンになってしんどかったのは、自分がガンになった以上に、周囲の人から心配されるのが辛かった、それで逆に病気がひどくなったようにも思う、と語っていたのを聞いた際にも


本人的にはガンは自分が立ち向かい、気力も自分についてはどうにかコントロールしようと思えるものだが、他の人から心配されるのは、自分でコントロールできにくく、巻き込まれる感じもあって、ただ相手も悪気もないから、それが辛かった、


そんな話を聞いて「あぁ、それ、ありそう!」とその説に100パーセント同意して、自分的にその考え方を採用ちゃってることもあります(あとガン自体より、薬が辛かったという話も聞きましたが、それはまあまた別に)


そう、そんなこともあって、僕は週末に「道の駅 む○かた」に車を走らせるときは「あぁ、そういえば、あいつ元気にしてるかな〜」って、そんなことを思いながら、車を走らせて彼に会いにいくんです。


そう、だから、彼個人は、きっと今楽しくやってる、そりゃあ間違いない。


ただ、だからと言って、すべてが納得できてるわけではありません。やりきれなさがない、わけではありません。


「もうちょっと、どうにかならなかったのだろうか、、、」


そう思わなくはありません。


、、、


だって、、


彼は、初めてではなかった、、、からです。。。


・・・



残り1週間ほどの休みのはじまり。道の駅むなかたで月と星を眺めて「やっぱ九州巡るかな〜、メインは鹿児島方面で、行けたら屋久島いきたいな〜」と思案しながら、深まる夜の微笑みに包まれながら、ゆっくり眠って、目が覚めて


「まあ、ひとまず、いつもの温泉にでも入りにいくかな〜」


朝陽にむかい背伸びをし、


次に向かって車を走らせることにしました。


〜その2へ続く〜


、、、多分。笑


***


ということで
今日のところは以上です。


本日も
楽しんDay!^^


それでわ、わでれそ〜

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