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【水平社宣言を読む2022】全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ!

 宣言は、まず、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ!」という呼びかけから始まっています。この呼びかけから想起されるのは、「共産党宣言」ではないでしょうか。
 「万国のプロレタリヤ団結せよ!」で締めくくられた共産党宣言は、1904年に日本語訳が紹介されました。水平社が創立された1922年には、日本でも共産党が結成され、非合法活動ながら、当時の社会運動に影響を与えていました。
 
 共産党宣言(1848年 マルクス、エンゲルス)が、初めて日本訳で紹介されたのは1904(明治37)年の『平民新聞』(週刊『平民新聞』第53號 明治37年11月13日發行)でした。訳したのは幸徳秋水、堺利彦で、この時掲載されたのは英訳(原文はドイツ語)からの日本語訳で、掲載直後、秩序をかく乱したとして、発売禁止となりました。
 1906年に全文をドイツ語から訳し直して発表され、このときは発禁処分を受けませんでしたが、大逆事件以後、太平洋戦争が終わるまでの数十年間、非合法の扱いを受けました。
 1922年には日本共産党が結成されました。共産主義の国際組織で承認され、日本共産党はコミンテルン日本支部となりました。
  

●全国に散在する


 呼びかけに応えて参加した人は、およそ3000人で、広島、兵庫、四国、滋賀、三重、大阪、福島、京都、奈良、埼玉、東京からの参加者が発言しました。

 中でも、奈良から参加した14歳の山田孝野次郎(このじろう)【註1】の発言が注目されました。山田は、役人や先生は、演説や講話で平等の必要性や差別の不合理を唱えるが、実際には圧迫・侮蔑・擯斥(ひんせき)といった差別が厳しいと、実例を挙げて訴え、「今私共は泣いている時ではありません。大人も子供も、一斉にたって一斉にたって此嘆きの因を打ち破って下さい、光り輝く新しい世の中にして下さい」と呼びかけました。(参考:「全国水平社創立大会記」『水平』第1巻第1号創立大会号 1922年)
 
 それは、当時の差別は、特に学校において、大変厳しかったからです。子どもたちによるものだけでなく、訓導と呼ばれた教師の差別もひどく、しばしば問題となりました。
 司法省調査課『司法研究』【註2】に掲載された報告によると、1923(大正12)年3月から24(大正13)年3月に至る1年間の「差別的言行に対する糾弾事件数」は、京都・大阪・奈良・三重・和歌山・兵庫・福井・岡山・山口・福岡・熊本・高知・栃木・埼玉・長野の合計1,432件という「驚くべき数字を示し」、「其の大部分は小学校に於ける差別事件である」と指摘されています。
 学校の統廃合が進み、人の交流が進む中で、公教育の場で差別が頻発していたことは、深刻な問題でした。
 
【註1】山田孝野次郎は1906年生まれとする資料が多く、創立大会時には16歳になっていたことになりますが、『水平』第1巻第1号創立大会号の「全国水平社創立大会記」では「全国少年代表山田孝野次郎君は十四才の紅顔の可憐児、その愛(いたい)けな姿を壇上にあらはすや、堂々として」と報告されています。
 
【註2】 福岡地方裁判所検事 長谷川寧『水平運動並に之に関する犯罪の研究』(司法省調査課『司法研究』第5輯報告書集4所収 1927)
執筆者の肩書、タイトルが示すように、水平社とは異なる立場で、運動やその背景を観察、分析したもので、『部落問題・水平運動資料集成』第1巻(三一書房1973)に、大部分が採録されています。
 
 また、創立大会後、全国で次々と水平社が結成されました。奈良と三重では、1921年から組織化の動きがあり、早々と水平社が創立されました。その後、各地で、水平社への結集が続きます。県単位だけでなく、地域で水平社を創立するところもあり、全国に広がっていきました。
 

・1922年前後の動き

1921年
5月15日 奈良県柏原で燕会結成
春 三重県で徹真同志会組織

1922年
全国水平社創立大会(3月3日)
京都府水平社創立大会(4月2日)
埼玉県水平社創立大会(4月14日)
三重県水平社創立大会(4月21日)
奈良県水平社創立大会(5月10日)
大阪府水平社創立大会(8月5日)
愛知県水平社創立大会(11月10日)
兵庫県水平社創立大会(11月26日)   

1923年
関東水平社創立大会(3月23日)
静岡県水平社創立大会(3月31日)
愛媛県水平社創立大会(4月18日)
高知県水平社創立大会(4月)
全九州水平社創立大会(5月1日)
山口県水平社創立大会(5月10日)
岡山県水平社創立大会(5月10日)
和歌山県水平社創立大会(5月17日)
佐賀県水平社創立大会(6月17日)
福岡県水平社創立大会(7月1日)
鳥取県水平社創立大会(7月12日)
熊本県水平社創立大会(7月18日)
広島県水平社創立大会(7月30日)
栃木県水平社創立大会(8月5日)
   
1924年
大分県水平社創立大会(3月30日)
茨城県水平社創立大会(4月15日)
滋賀県水平社創立大会(4月18日)
長野県水平社創立大会(4月23日)
岐阜県水平社創立大会(7月10日)
香川県水平社創立大会(7月11日)
全四国水平社創立大会(9月20日)
千葉県水平社創立大会(10月4日)
徳島県水平社創立大会(12月24日)

1925年
山梨県水平社創立大会(5月4日)

1928年
長崎県水平社創立大会(6月6日)
 

・特殊部落民よ団結せよ!

 この宣言では、「特殊部落」という言葉が使われています。
 
 そもそも「部落」とは、集落、地域を意味する一般的な用語で、昭和末期頃でも日常的に使用している人は少なくありませんでした。
 対して、「特殊部落」は、差別されている地域(部落)を意味し、差別的な意味を込めて「特殊」と表現しました。つまり、特定の地域を差別するために使われた言葉だったのです。
 そのため創立大会閉会後の夜の協議会において、参加者から「吾々自身が、特殊部落の文字をあらはすのは、自らを卑下するものである」という批判がありましたが、水平社の中心であった青年たちは、あえて「特殊部落」を掲げることの意義を強調し、議論となっています。
 
 水平社の創立メンバーは、なぜ、このように差別的な意味のある「特殊部落」という言葉を使ったのでしょうか。水平社創立を伝えた機関紙『水平』第1号から、当時のメンバーの思いを紹介します。

「特殊部落」を誇りある名にまで向上せしめんと念願する青年輩(せいねんはい)は、いつか、聞き入れず、為に議論に花が咲いた。
 
明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代つている。実質が変化しなければ名称は問題でない。歴史は絶対に消されぬ、エタが華族になり、華族がエタの名称と代つても、吾等に対する賤視的観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧(むし)ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜(ひょうぼう)して、堂々と社会を闊歩(かっぽ)し得る輝きの名にしたい」と主張する者が多数を占め、結局名称によつて吾々が解放せられるものではない。今の世の中に賤称とされている「特殊部落」の名称を、反対に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになつた。 (『水平』第1巻第1号) 
 

 宣言後半でも、差別的な意味がある「エタ」という言葉を使い、「吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ」とも述べています。ここにも同じ思いが込められているといえるでしょう。

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