見出し画像

何にも無いけど素敵な人だと思われたい

人に誇れることが何一つ無い。

なんとも悲しい書き出しから始まってしまいましたが、今日はこんな話。
凄い人は世の中に幾らでもいて、「天才」「鬼才」なんて、今やありふれたものになってしまった。インターネットが普及するにつれて「1億総クリエーター時代」とか言われるようになったこの世界で、何の才能も持たず、各種教育を受け、適度に恵まれ、適度に見放され、見事幸せなまま気づいたら社会人。わたしは数々の「こんな筈じゃなかった」の狭間に取りこぼされてしまった。じゃあどんな筈だったんだ。先見性も才能も無い癖に。このまま働いて、出世して、結婚して子どももできて、見えない「みんなと同じ」に縛られたまま、何の変哲もない人生を終えていくんだというなんとも言えない無力さと焦燥と絶望。誇れることなど持ち合わせやしないのに、他者と相合わせた時に半ば自動的に感じてしまうこの敗北感は何だろう。この期に及んで、まだ誰かや何かに望まれたい、選ばれたいと思ってしまっているのだろうか。

きっとこんなどろどろした澱みたいな気持ちもわたしだけでは無いだろうと信じたいのだけれど、一方でこの文章も誰かを救いたいと思って書いた訳では微塵もない。このままだと何だかひとりで気落ちして腐っていきそうなので、今日も文章にしてわたしの心を落ち着けようと筆を執った次第でございます。(実際にはフリック入力とかキーボードなので筆は執ってないけど)自分の苦しさは自分で引き受けていくしかないので。
ここまでで何かしら共感を覚えて下さった方は、どうか最後までお読みください。繰り返すようですが、全くのわたし語りなのであなたの心が救われる保証は無いけれど。

自己肯定感の低いわたしは「お褒めの言葉」で白米を食らう

自分が本当に価値の無い人間だと思ってしまう。「誰かは誰かにとって価値ある存在である」という気落ちした心を慰めてくれそうな文言を、未だ無条件に肯んずることが出来ないでいる。過去に壮絶な経験があった訳では無い(と自分では思っているし、もっと辛い幼少期を送ってる人はたくさん居るだろうしな……とも思う)のだけれど、何故か昔から言葉でもシチュエーションでもなんでも否定的なイメージばかり溜め込んでしまう傾向がある。だからこそ、人から褒められたことは、ずっと心に留めておく。たち悪く反芻する。けれどそういったもののは「ダクト飯」みたいなもので、実際はもう何年も前のことなので焼肉やトンカツに当たる褒められた部分の核心というか、実態がもう無いのだと思う。けれども自己肯定感が限りなく低いので、他者に褒められたら、それはもうこの上なく嬉しい(自己肯定感が低いが故に、往々にして一旦は疑いというターンを挟むのだけど、面倒な奴)。
かくして今宵もわたしは、持ち前の想像力とやらを活かして、昔のお褒めダクトの元で白米を味わうのである。今日は中学と高校時代に私を救ってくれた、ふたりについてのエピソード。

中学時代→「楽しそうに笑うよな」が笑顔の起源

わたしは小さな頃から豪傑に笑う癖がある。わたしは明確な意図を持って笑うことを意識している。固定のストレス解消法を持ち合わせないわたしの唯一のストレス発散の方策として、「笑い」があるからだ。「はしたない」も「女の子らしくない」も重々分かっている。それでもわたしはちょっとしたことでも、大口を開けて笑い飛ばした。日常に、殺されないようにする為だ。

中学の頃、そんな笑い姿を一度だけ同級生の男子に褒められたことがあった。お前ってさ、何でも楽しそうに笑うからいいよな、助かるわみたいな、そんなニュアンスだったろうと思う。改めて今、こうして古びたお褒めダクトの下に来てみると、なんだか褒められたと言うにはあまりにも心もとない感じがする。それでも、その当時はどことなく無理に笑おう笑おうとしてた気持ちがあったのが、少し軽くなったのは事実なのだから、大切な思い出として、わたしの良い点として、カウントしておく。

色々あって高校時代は沈みきっていたのだけれど、今は接客業をしている。それもあってか、日常生活でも、よく笑っているわたしを意識する。ずいぶん口角も上がるようになり、声に出して「は、は、は」と笑わなくても、笑顔に胡散臭さが薄れたな、と思う。
微笑みを浮かべていることを意識すると、なんとなく彼のかけてくれた言葉を思い出す。
笑顔でいる方が、ずっと楽しいと思う。だからいつまでも、表情は柔らかいままでいたい。

ちなみに先日、これまた中学時代の友人と居酒屋に行く機会があったが、たまたまそこで懸命に注文を取り、ホールとキッチンをあくせくと動く彼と再会した。屈託なく笑う彼の笑顔は、あの頃と何も変わらなかったが、何回か接点はあったものの、結局あちらから声をかけられることは最後まで無かった。お会計の際に、少しだけ挨拶をして店を後にした。
月日はいつも嘘をつかない。少しの寂寥を感じつつも、わたしはひとり、帰路に着く。彼が醸し出す温かみを、いつまでも持ち合わせて欲しいと祈りながら。

高校時代→「ひとの悪口を言わない」という「呪い」が解けた言葉

高校の頃から今でも付き合っている友人がいる。3年間ずっと一緒のクラスだった。最初の印象は、「大人しそう」「雰囲気なんとなく似てるな」「でもきっと声をかけても一時的なもので、仲良くなることはないだろうな」だった。詳しく聞いた訳では無いが、最後の「仲良くならないだろうな」に関しては、少なからず彼女も思っていたらしく、未だにことある事に「こんなに仲良くなると思わなかった(笑)」と言われる。それはわたしも、そう思う。
何故かと言うと、彼女とは致命的に趣味が合わないからである。興味を抱く事柄も、少し違うベクトルを向いている(高校時代は、特に顕著だった)。最近直接会えていないが、今でも会ってはお互いに一方的に好きなことをべらべら喋って満足しているだけで、全く会話らしい会話にならない。しかしそれでも心地よい「何か」があるのだ。
心地よい理由はきっとたくさんあるのだろう。しかし敢えて一つだけ挙げるとするならば、それは彼女の「肯定的スタンス」を、わたしが気に入っているという点にある。
趣味も嗜好も全く違うが、彼女はわたしの好きなものや人を否定することはない。勿論全く興味が無いこともあるだろう。それでもいつも温かく相槌を打ち、受け容れてくれている感を絶妙に醸し出してくれるのだ。ちなみにこれはわたしにも言えることだが、だからといって話を聞いているか聞いていないかは別問題で、覚えてないことのほうが実は大半であるらしい。しかし日常生活の多くは問題解決を必要としない会話なのであり、理論的に通るか通らないかというよりは、感覚的な雰囲気の部分を汲むことの方が、よっぽど望まれたりする。そういう「会話のペース」みたいなものが合うのかもしれないと思う。「いいじゃんいいじゃん」という肯定的なノリと温かみを感じられる雰囲気。彼女の良いところのひとつである。
ちなみに結構はっきりとした物言いをする彼女がわたしに言ってくれたのは、「愚痴というか、そういうのはあっても悪口を言わないからいいと思う」である。確かにわたしは負の感情を自らに滞らせないようにする為に、悪口や陰口を言わないようにしている(というか、常に自分のことでほとんど手一杯なので、言ってる余裕が無い)。しかしこれは元々は自分でこうしようと決めたというよりは、「悪口を言わない」が、我が家の教育方針のひとつだったから、小さな頃からびしびし躾られていただけのような気もする。そしてわたしはこれに結構苦しまされた(わたしが勝手に曲解して苦しんでいただけです。この辺はまた別の機会に)。しかし彼女の一見気楽な言葉もまた、わたしの中の凝り固まった部分、「呪い」を解くための助けとなった。
「いいと思う」というアバウトな肯定だけで嬉しいのだ。わたしもじゃんじゃん他人の事を褒めるようにしている。

何にも無いのに「素敵な人」だと思われたいという漠然とした欲求を達成するための手っ取り早い方法

結局わたしは他人が軸である。褒められたい、と思う。褒められれば、凄いと言われれば、頑張れるやつなのだ。ちょろいちょろい。ならば、自分で自分のことを褒めまくってみたらどうだろう。そう思って、最近実践している。「わたしは何でもできるから」と言う。それだけ。なんだかやる気が出る、気がする。何にも長続きしないし、一芸にも秀でてないけど、何でもできると思い込む。傲慢にならないように内省的な視点も持ちつつ、大丈夫と言い聞かせる。
今日も今日とて、わたしに特段の取り柄は無い。それでも目の前のやるべきことと、やりたいことを、ちょっとずつやっていく。それだけ。


Creepy Nuts  「たりないふたり」
R- 指定さんとDJ松永さんのふたりのことを指しているような歌詞が、どうしても他人事に感じられない今日この頃。韻がめちゃくちゃ心地よいのに、ちゃんと世界観がある。
「ないものだらけでないものねだりな最低のろくでなし」まさしくわたし……
長江貴士「このままなんとなく、あとウン十年も生きるなんて、マジ絶望」
「生きていくのがしんどい人たちのことを思い浮かべながら書きました」という長江さんの言葉で本著は始まる。なんだと。わたしじゃないか。長江さんは、数年前に本の表紙とタイトルを隠して売る「文庫X」の表紙に推薦文を書いた「書店員X」。本屋さんによく行く方であれば、ずらずらと文字だけ書かれた異様な本に見覚えがあるかもしれない。その仕掛け役。言わば凄い人。でも、生きづらいらしい。タイトルこそ絶望的ですが、読み終わったらきっと新たな境地に行ける。かもしれない。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。