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丁寧な生活

私がこの1年、散々就職活動たるものや教職公務員の試験等々経験してきて思うのは、面接での質問に全然答えられない、ということである。勿論聞かれた以上は誠意をもって答えたい。だから考えてしまう。この人は、一体何が聞きたいんだろう、と思うこともある。聞いて何になるのか。でも答える。聞かれた以上は、誠意をもって。だから人より少し、受け答えに時間がかかる。しかしそんな熟考タイプなど元から求められておらず、各人が「想定問題・回答集」を事前に用意しておいて、当日はそれをフルに活用し、うまくいった者が企業や組織には求められる。なにそれ。勝ち目ないじゃん。

「元から自分の話したいことを用意しておけば解決じゃない」と思う方、ご名答、その通りだ。しかし私は、もともと人と話すことが好きな気質ではあるが、事前に聞きたいことや話したいことを用意するのはとんと苦手なのである。勿論元来の日々コツコツ努力できないくせに、「なんとかなるだろう」と心のどこかで思っている怠け者の性がここでいかんなく発揮されているというのもある。しかしどうやら厄介にも、「自分を用意して、それで認められるなんて、くそくらえだ」「相手の反応ありきでの対話なんだから、その場で考えて話をしたほうが誠実なのでは?」「そういうのは元々の自分の気質と相手様との相性なんだから、用意していったって無駄無駄、ほんとうの自分を見てもらおうよ」などとも思っている節があるようで、どうも一筋縄にはいかない。

そうしてこれでうまくやっていけてれば良いのだが、これがまたそうでもない。当日の自分になんやかやと全部任せきりにした結果、結局うまくしゃべることができずにへこたれて、なんだか消化不良の思いを抱えて帰宅する日々を、もうここずっと繰り返している。なんなんだ。そんなにできないなら、事前に少しでも想定しておけばいいじゃないか。しかしここでまた前述したような思いが頭を掠め、結局また何の用意もせずに挑みかかり、やられる。このエンドレス・ループである。そうこうしているうちに、「ほんとうの自分」というのも、いるのかどうかなんだかわからなくなってくる。私は辟易している。どうして私という人間は、ここまで前持った用意や念入りな準備が出来ないのだろう。少し考えてみたい。

今まででいちばん困った質問

就職活動を1年程(一応)やって来た訳だが、まあ困る質問だらけだった。その一つは、いまでも根強く生き残っている、「志望動機」。それもその筈、働く、ということを最低限自分が生きていくために必要な手段としか思っていない私が、志望動機も何もある訳がない。福利厚生がある程度あって、労働力と時間に見合った給料がいただけて、有給が滞りなく取れるのならば、ぶっちゃけどこでもいい(ちなみに、某社のエントリーシートにて、企業に望む条件をランキング形式で10個ぐらい書かなければならないことがあり、そんなにないよ、と思いながら渋々ひねり出して上記を少しマイルドにしたものに加えて「一緒に働いている人が尊敬できる」とか、「パワハラやセクハラなど倫理観に反する行為に毅然とした態度を取っていただける」とかめちゃくちゃ当たり前のことを書いたのにも関わらず、「当社の力量不足で……」とお祈りメールが届いたのには正直驚いた。尊敬できる人間もいなければ、パワハラセクハラも横行していて、というかトップの方に給料について書いたのに、そのお給料までちゃんと支払われないのかと思い絶望した。(多分エントリーシートの問題はそこではない、と思いたいのだけれど)。社会貢献なんて知らない。そんなの、日々の業務を丁寧に行うことからでしょ?と思っていた(今も割とその念は強い)。だからこの志望動機というものには毎度、よくよく頭を悩ませる。「とは言っても志望動機は、仕事に対するモチベーションになるのだから……」とこの前もどこぞで言われた。いやならない。仕事でも人生でもそうだが、そもそもモチベーションなど存在しない。好きなことしかできないので、究極に言えば労働なんか一番したくない。そこには何たるモチベーションもない。あるのは生きていくための必要性だけである。志望動機というのは本当に困る。究極を言えば、どんな業界だって、私にとっては金を稼ぐためなんだし、生きていくためなんだから、その辺はもう企業の側も、「ふーん、そんな人もいるのね」と、いい加減目をつぶって欲しいものである。

しかし私にはもっと困る質問があった。それは、

「今まで、どんな挑戦をしてきましたか?」

「今後、どんな挑戦をしていきたいですか?」

というものである。これはもう、はっきり言って地獄だ。何もない。いや、何もないと言えば嘘になる。「やりたいこと」とか、「今までやったことがないけど、意を決してチャレンジしてみたいこと」とか、そういうことを聞かれているのは分かっている。でもいざ頭の中で考えてみると、あんまり革新的でないような、凡庸なことしか思い浮かばない。旅行、旧作鑑賞、書店や図書館巡り……勿論ありふれていたって、素晴らしい挑戦になる可能性もある。しかしこんなことを考えているこの私は、凡庸ならまだよかったものの、人間としての基本的な生活を営むのが苦手という致命的な欠点がある。調子が良ければ前述したような、やりたいこともどんどん思い浮かぶが、調子が悪いと何も出来なくなるので、路傍に転がる木切れの方が、恐らく私よりずっと、役に立つことになる。嗚呼、早く人間になりたい。果たしてこんなやつが、大それた「挑戦したいこと」など、胸に抱いていいのか、とも思ってしまう。

「部屋を片付ける」のTO DOリストが、いつまでも消せない

ここで少し、「生活」について、考えてみる。朝起きて顔を洗い、ご飯を食べて、歯を磨き、着替えをして、登校ないし出勤する。学校や仕事が終われば、家に帰ってきてご飯を食べて、お風呂に入って、寝る。大人になれば自分のことは(ほとんどの場合は)自分でやらなければならないので、掃除や洗濯、料理も全部、自分でする。お金の管理もする。仕事についても考えるし、家族が出来れば、きっと自分のことばかりも考えていられないだろう。普段から何でもかんでも考え込んでしまい、幼い頃には周りになんでなんでと聞きすぎて、誕生日プレゼントに「これで解決しなさい」と祖父母に頼んでもいないのに国語辞典を渡されるような私には、到底1日が足りないのである。

なんてタスクフルなんだろう。ただ生きているだけなのに。

しかもざっと書いているだけなので、現実的にはもっと、人間は「生活」について、思いを馳せている筈である。というか多分「生活」というのは人間にとっては当たり前の行為なので、わざわざ「思いを馳せる」必要もないのかもしれない。それでも私は考えてしまう。そして考えた結果、「人に迷惑をかけない程度ならいいだろう」とどんどん生活が荒んでいく。何故か。生活は、基本的には自分にしか必要がないから。とことん利他的に生きていきたい私にとって、生活というものは、自分のために行う究極の行為。要するに「生きるのが苦手な私」は、「生活するのが苦手な私」、と換言できるのかもしれない。生活の厄介な所は、少々荒むだけなら、何ら問題をきたさないという点にある。しかしそれも重篤になってくると、日常生活すらまともに送れなくなってくる。そしていずれは各方面に、多大なご迷惑をおかけすることになってしまう。
誰かを大切にしたいなら、まずは自分からだ。できることなら早いうちに手を打ちたい。自分が自分に迷惑するようになっていたら、それはもう深刻なサインだととりたい。そして早めに休みを取るなり、軌道修正をはかるなりした方が良い。ちなみに私のデスクにはもう3年ぐらい「部屋の片付け」というタスクが張り付けてあるが、一向に消える気配がしない。なんてこったい。特大ブーメランじゃないか。そしてそんな自分に本当にうんざりしている。今日も部屋は当然の如く散らかっており、毎日毎日「部屋の片付け」という文言が目に入る。どうにかしようとして、机ごとひっくり返してしまいそうになる。いけない。このままだとほとんど風景と化したTO DOリストのせいで、私の気が狂ってしまう。何とかしなくては。

「丁寧な生活」は、「挑戦」に含まれるか?

話を本筋に戻そう。私たちは、「挑戦」と聞くと、どうしても大それたことや、何かと戦うことばかり考えてしまいがちだ。「世界一周」とか、「自転車で大陸縦断」とか、「エベレスト登頂!」とか、「自分の本を書く」とか、「起業する」とか、「大金持ちになる」とか(だんだん漠然とした願望みたいになってきた)。勿論大きな夢や目標があるという人のことは、心から応援したいし、それはとても素晴らしいことだと思う。周りから何を言われても、屈することなく突き進んで欲しい。だって本当にかっこいいことなのだから。恥じる必要などないし、笑われる筋合いはもっとない。だからもっともっと、自信をもって欲しい。向上心は、人間の一番の糧になる。

しかし挑戦したいことなんてないよ、大それた目標なんて持っていいのかな、と思っている人も、少なからずいると思う。大きな夢や目標が大切であるのと同様に、大きな夢や目標がない人だって、何も悪いことではないのだから、どうか気を落とさないで欲しい。まだまだ先の見えないこの現状に、気が塞ぐのも、よく分かる(元々悲観的な思考があるのなら、なおさら)。
「挑戦」とは、確かに困難な物事や新しい記録などに立ち向かうことではある。
しかしそれを他者と比べてどう、ではなく、あくまで自分軸で考えることはできないだろうか。「自分にとって」困難な物事や、「自分にとって」新しい記録などに立ち向かうことだって、十分挑戦になるのではないだろうか。「挑戦したい」と言うことは、志も社会貢献欲も高く、清廉潔白な人にだけ許される行為なのか。答えはNOだ。私は先ほども述べた通り、人間としての基本的スキルがはるかに低いので、「毎日を丁寧に暮らすこと」「生活を送ること」は、本当にとてもハードルが高い。何せもう3年も部屋の片付けがまともにできていないようなやつなのである。動かぬTO DOリストが、その証左だ。しかしこんな人間が不得手な私にだって、大なり小なり挑戦したいことはある。「生活を整える」というのは、あくまでもそのひとつ。え、しょぼくない?しょぼくて結構。だって私にはハードル高いんだし。はいはい、もともと意識が低くてすみませんでした。理解されなくたっていい。でも、私は声を大にして言いたい。

丁寧な生活ってやつに、挑戦させてくれたっていいじゃないか。

おわりに(丁寧な生活を送ることは、誰かと丁寧に向き合うこと)

とはいえ丁寧な生活に挑戦すると言っても、あまりピンとくる人がいないかもしれない。無○良品とかで家具を揃えてみるとか、もしくは、小奇麗なインテリアで、花を飾って……と想定している人もいるかもしれない。でも、私のイメージとは少し違う。いつもよりちょっとだけ早く起きて、コーヒーを飲んでまったりする。大好きな映画を観る。本を読む(それだけかよ、と思う方。そうなんです。私にとっては、日々自分の好きなことをやり、過ごしていくのが一番丁寧なんです。私の人間底辺ぶりは他のnoteにも存分に提示されておりますので、宜しければそちらもご参照あれ)。
自分の気持ちに、向き合う時間を作る。たったそれだけでも心に余裕が生まれる。自分の心に余裕が生まれると、周りのことに目を向けることができるようになる。冒頭の質問に戻るが、質問を用意できない、というのは、自分の思考がまとまらないというのもあるが、それはつまり、あらゆる心に丁寧に向き合ってなかったとも言える。事前に色々と用意してくれたであろう相手の思いにも、「伝えたい!」という自分の気持ちにも。
今はどんなに時間がかかっても、真摯に相手や自分に向き合う気持ちが大切であり、それが「丁寧な生活」における第一歩と考えている(そしてそれは、事前であればあるほど望ましい。時間たくさんとれるしね)。だから頑張って、これからは出来るだけ用意して物事に対して挑みたい。そういう誠意の形もあるよね。結局どういうことかというと、丁寧な生活を送りたい、と思うことは、誰かと丁寧に向き合いたい、と思うことなのかな、ということ。勿論、自分も含めてね。

挑戦する権利は誰にでもある。小さくたっていいから、まずは一歩、踏み出してみること。これが全ての始まりだし、もしかすると、「挑戦する」ということは、始めることで、案外簡単に達成できてしまうものなのかもしれない。まあ、だから人は挑戦し続けるんでしょうね。

以上、「挑戦すること」に対して、そんなにハードルを上げて、構えなくてもいいんじゃないですか、という話でした。私は一刻も早く自分の人間としてのスキルを上げたいけれど。精進します……。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。