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トーシネ祭に関する考察 なぜ「祭り」ではなく「文化祭」なのか?
帰り道での疑問
トーキョーシネマ文化祭に行ってきた。
私はJホラー監督ステージと1分映画プレゼン&エンディングステージを見に行った。ホラーステージは3名の監督から、ホラーを撮る際のフェチだったり、今後のホラーについての展望を聞けて贅沢な時間だった。
プレゼン対決も各試合ドラマが生まれて見応えがあったが、見応えがあったのは試合だけでなく、みなみかわさんのMCが凄すぎてそれにも驚かされた。
最高だったなーと思いながら帰路に着いた時、「そういえば」と思うことがあった。
なぜトーシネ祭は「祭り」ではなく「文化祭」なのだろう?
略称で呼んでしまうので印象が強くなかったが、トーシネ祭は名前に「文化祭」という名がついている。別に「トーキョーシネマ祭り」としても良さそうだが、何が違うのだろうか?
祭りだと映画が見れるイベントだと勘違いされるのでは?いや、語呂がよくないからでは?など様々な理由があるとは思う。
上記はマーケティング的観点からの理由であるが、私はコンセプトという観点からの仮説を持つに至った。そしてその仮説を以てトーシネ祭を振り返った時、そのコンセプトが企画にまで落とし込まれていると気づいてさらに「最高だったなー」と感じたのである。ということでそれをここに書き記していきたい。
なお前提として、私はトーシネ祭のステージを全て見ている訳ではない。そのためグラシネの佐々木会長やジャガモンド斉藤さんあたりが「文化祭としたのは○○が理由で、」と言っていたら以下の仮説は水疱に帰するので、参考程度に読んでいただければ幸いである。
「映画文化を維持・発展させる」というコンセプト
先に仮説を述べてしまおう。「トーシネ祭が文化祭と名がつく理由」という問いに対する仮説は、それ自体のコンセプトが「映画文化を維持・発展させていく」ことにあるからではないか?というものである。
正直、「なんだ、そんなことか」と思う方も多いと思う。しかし、シンプルであることは、単純さと裏返しに多くの人が理解できるという多大なメリットが存在する。そもそも、企画コンセプトはある程度シンプルである必要がある。例として起業家を挙げる。
起業家は投資家から投資してもらうために、エレベーターピッチ(15秒〜30秒)の技術を求められるという。そこでは短い時間で自分のサービスがどれだけ魅力的であるかを投資家に理解してもらう必要がある。
そんなところで「このグラフを見てください、サービスの市場規模は○○で、、」などと悠長なことは言っていられない。たちまち投資家はエレベーターを降りてしまうだろう。
そこで役立つのがコンセプトである。ここではサービス全体の方針や根底にある考え方という意味だが、これによってビジネスがうまくいくかが判断されるため、わかりやすくかつ刺さる文言であることが要求される。
このようにコンセプトは、誰でも理解できる平易な文言だが核心を突く言葉であるからこそ、多くの人の共感を呼ぶのである。
「祭り」という言葉が持つ一過性
ここまでトーシネ祭のコンセプトと、コンセプトという概念自体の重要性について説明した。
では「映画文化を維持・発展させていく」コンセプトを形にしていく際、ネーミングを「祭り」にしないのはなぜなのか?という疑問が次に湧いてくる。
この点について、私は「祭り」という言葉の持つ一過性の印象に原因があると考えている。
元来「祭り」は、神への信仰に伴う儀式を指す言葉として長年認識されてきた。しかし昨今、インターネットスラングとして「祭り」という言葉が用いられることが増えている。
IT用語辞典バイナリによれば「祭りとは、インターネットスラングとしては、電子掲示板のスレッドやソーシャルメディアのタイムラインが平時とは比べものにならない盛況を呈する、いわば「お祭り騒ぎ」の状況のことである。」と説明されている。
このように「祭り」という言葉は、SNSで起きた一過性の出来事を指す言葉としても機能するようになったのである。
さて、上記のように考えたとき、「祭り」はトーシネ祭の「映画文化を維持・発展させる」コンセプトと合致しているだろうか?答えはNOである。
もちろん、「文化祭」という言葉が必ずしも「祭り」の有する一過性を持たないと言い切ることはできない。実際トーシネ祭当日はXが活況となるし、後夜祭も含めて盛り上がることは確かにある。しかし「文化祭」と呼ぶことで、エンタメ的な楽しさを残しつつ、映画文化を維持させたいという強い意思が垣間見えるのだ。
トーシネ祭が訴えるもの
さらにこの一過性への抵抗という部分に関して、私は映画文化のみを指すものだけではないと思っている。それは、1つ1つの映画である。
サブスクサービスの普及により、誰でも簡単に映画にアクセスできるようになった現代。観やすくなった反面、映画1つ1つに耽溺する人は減ってるように思う。新作映画を見るにしても映画館の料金は高騰しており、同じ映画を何回も観に行くためのハードルは上がっている。
溢れるコンテンツと映画館の高騰の中では、1つ1つの映画は何度も顧みられることはなく、SNSにおける祭りのように一過性のイベントへと成り果ててしまうだろう。
このように見ると、「トーキョーシネマ文化祭」は映画文化の存続だけでなく、
「1つ1つの映画は即物的に消費されるコンテンツではなく、何度も同じものを観ても面白いぞ」ということも含めて訴えかけているように思う。(メインステージのオッペンハイマーステージとJホラー監督ステージはそのコンセプトの具現化だと推察してます)
「トーシネ祭はなぜ祭りではなく文化祭なのか?」仮説まとめ
ここまでのまとめは以下である。
①トーシネ祭が文化祭と銘打っているのは、企画のコンセプトが「映画文化の維持・発展」にあるからである。
②「祭り」という言葉は「映画文化の維持・発展」というコンセプトに対して、現代的な感覚から考えて不相応である。
③「文化祭」の持つ「一過性への抵抗」というニュアンスは、映画文化だけでなく、映画1つ1つに対しても共通しているコンセプトである。
ということで考察を述べてきましたが、いかがでしたでしょうか。
補足
グランドシネマサンシャインの施設紹介サイトにて、このような文があった。
「たいせつな友人を招くように、
心を込めたおもてなしで映画ファンをお迎えしたい。
コンセプトは、とてもシンプルなこの思いです。
(中略)案内サインひとつひとつに至るまで、とことんこだわり抜きました。
訪れるたびに発見がある、映画がますます好きになる。
そんな様々な趣向を館内のいたるところに凝らしています。
ようこそ、映画の殿堂へ。」
コンセプトはシンプル。何回も訪問することを見越した設計(一過性への抵抗)。グランドシネマサンシャインのコンセプトもトーシネ祭と同じ思想がある!と気づいてびっくりしました。
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